指を差してみて
「私のことを指で差してみて」と彼女は言った。
「何かのことで、私を非難しているつもりになってね。」
私は彼女を指差した。
「見てごらんなさい。
あなたの三本の指は自分のほうを差しているのよ。わかる?」
「カミーノ」シャーリーマクレーン著

誰かを非難しようとするとき、本当は自分を非難している。
他人を通して自分を非難しているのだ。
しかも、指は三本も向けられている。

ここのところ珍しくイラつくことがあって、気分を持て余していた。
怒りというのは、確かに猛毒だ。。。
でも、怒りには理由があるはず。
そう、メッセージなんだ。
怒りに任せて、怒りそのものになることが良くないだけだ。
見て見ぬ振りも、奥底に負のパワーを溜め込むことになる。
その本当の理由がわかりさえすればいい。
だから結局、静かに自分に問いかける。
本当は何に対して、
何故腹を立てているのだろうかと。
そうなんだ。
いつも行き着く答えは、決まってるんだ。
他人にこうあって欲しいと望むから
そうでないときに裏切られたような気持ちになって腹を立てるんだろう。
自分自身のことならともかく
他人のことは、ただありのまま、そうなんだと受け入れるしかない。
コントロールしようとしたり
失望したりするから
腹が立つのだ。
昨日眠る前にたまたま読んだ「カミーノ」という本に
書かれていた言葉が心に響いた。
「見てごらんなさい。
あなたの三本の指は自分のほうを差しているのよ」

例えば、誰かの意志の弱さを非難するときは
自分の中にもある「意志の弱さ」の部分を
強烈に非難しているんだ。
誰かの「利己的」なところを非難するときは
自分の中にもある「利己的」な部分を。
小学生の頃、
「他人は他人、自分は自分」と教えられたが
子供心に少し不安を感じていた。
自分だけ見つめることは、本当は不安で怖いことなんだ。
それくらい厳しいことなんだ。
けれどその言葉の示唆することは
他人を気にすることでよろしくない
感情がわき起こり
自分を見失ってしまうからということだ。
究極には、この世界にひとりきりなのだ。
という考え方がある。
目の前で展開される出来事は全て
自分が試されているのだ。

誰かを非難したくなったときは
指が3本自分に向いているということを
一瞬思い浮かべようと思う。
「何かのことで、私を非難しているつもりになってね。」
私は彼女を指差した。
「見てごらんなさい。
あなたの三本の指は自分のほうを差しているのよ。わかる?」
「カミーノ」シャーリーマクレーン著

誰かを非難しようとするとき、本当は自分を非難している。
他人を通して自分を非難しているのだ。
しかも、指は三本も向けられている。

ここのところ珍しくイラつくことがあって、気分を持て余していた。
怒りというのは、確かに猛毒だ。。。
でも、怒りには理由があるはず。
そう、メッセージなんだ。
怒りに任せて、怒りそのものになることが良くないだけだ。
見て見ぬ振りも、奥底に負のパワーを溜め込むことになる。
その本当の理由がわかりさえすればいい。
だから結局、静かに自分に問いかける。
本当は何に対して、
何故腹を立てているのだろうかと。
そうなんだ。
いつも行き着く答えは、決まってるんだ。
他人にこうあって欲しいと望むから
そうでないときに裏切られたような気持ちになって腹を立てるんだろう。
自分自身のことならともかく
他人のことは、ただありのまま、そうなんだと受け入れるしかない。
コントロールしようとしたり
失望したりするから
腹が立つのだ。
昨日眠る前にたまたま読んだ「カミーノ」という本に
書かれていた言葉が心に響いた。
「見てごらんなさい。
あなたの三本の指は自分のほうを差しているのよ」

例えば、誰かの意志の弱さを非難するときは
自分の中にもある「意志の弱さ」の部分を
強烈に非難しているんだ。
誰かの「利己的」なところを非難するときは
自分の中にもある「利己的」な部分を。
小学生の頃、
「他人は他人、自分は自分」と教えられたが
子供心に少し不安を感じていた。
自分だけ見つめることは、本当は不安で怖いことなんだ。
それくらい厳しいことなんだ。
けれどその言葉の示唆することは
他人を気にすることでよろしくない
感情がわき起こり
自分を見失ってしまうからということだ。
究極には、この世界にひとりきりなのだ。
という考え方がある。
目の前で展開される出来事は全て
自分が試されているのだ。

誰かを非難したくなったときは
指が3本自分に向いているということを
一瞬思い浮かべようと思う。