一番札所は熊野三山のひとつ、那智の青岸渡寺
今回のたびのテーマは熊野詣に決定したのですが
熊野詣とはどういう巡礼なのでしょうか??
今日はそれについて勉強しようと思います

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熊野という土地は
ほとんどが山林に覆われ
平地はほとんどなく、
山からいきなり海になるような地形の所が多い熊野は
人が農耕をして暮らすには不便な場所でした。

当時の都会である大和地方の人から見たら、
熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、
大和とはまるで違う異界だったとおもいます
 
現代も土地柄交通の便はあまりよくならず『陸の孤島』
といわれています(地元人談)

『日本書紀』によると、
熊野は日本の神様をたくさん生んだイザナミノミコトの
葬られた土地として登場します。

大和地方の人々は熊野を死者の国(死後の世界)
に近しい場所と考えていたようです。

熊野には以前から死者の国としてのイメージが与えられていたので、
のちに浄土信仰が盛んになったときに、
やはり死者の国である「浄土」と結びつけられ
神仏習合や浄土信仰の隆盛により
熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになりました。



本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土

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新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土

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那智は千手観音の南方補陀落土の地 であると考えられ

新興宗教・浄土宗が広まり始めた院政期
上皇や女院による熊野御幸が行われるようになり
熊野御幸がほぼ年中行事と化すほど
上皇たちは熊野信仰に熱を入れました。

 武士の世となり、院政が衰え、熊野御幸は衰退していきましたが、
上皇たちは来なくなりましたが、今度は武士や庶民による熊野詣が盛んになります

熊野本宮大社で一遍上人が阿弥陀如来の化身であるとされた
熊野権現から神託を得て
時宗を開いたことにより
時宗の聖地となり今度は武士や庶民による熊野詣が盛んになります。

「蟻の熊野詣」
蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様にたとえられるほどに、
大勢の人々が列をなして熊野を詣でるようになりました

熊野詣は女性にも人気 
熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら
当時不浄とされていた女性の参詣を禁じませんでした
禁じないどころか積極的に受け入れていました。
また、忌み嫌われ
社会の最下層に追いやられていたハンセン病者をも受け入れました。
熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだったのです
男であろうが女であろうが、老人であろうが若者であろうが、
身分が高かろうが低かろうが、出家していようが在家であろうが、
なんであろうが、あらゆる人々を受け入れる聖地であったのです。

やがてその熱狂振りも衰微していきます。

江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策のもと、
神道化。それまで熊野信仰普及に多大なる貢献を果たしてきた
熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑圧しました
その結果、熊野信仰は衰微していきます。

ですが2004年に
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』に登録され
人気のパワースポットとして人気です!!!

さて、どんな巡礼旅になったのでしょうか?