願掛けをかねて
西国三十三ヶ所を巡礼し、ともに神仏霊場も巡礼していました


それをまとめていきたいなぁとおもいます

西国三十三ヶ所とは
まず、それについてお勉強

※JR「駅からはじめる西国巡礼」パンフレットより

西国三十三ヶ所は
近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所の観音霊場
(番外3つを含めると36ヶ所)
を巡ることをいい
これらの霊場を札所とした巡礼は日本最古の巡礼です

四国八十八箇所より古いんです

ちなみに
西国を巡ることを巡礼
四国をめぐることを遍路というんですって
どっちも一緒かと思いました


三十三ヶ所にも意味があり
観音さまが三十三の姿に身を代えて人々を救うことからきています

忍術!変身の術ですな!

霊場ができた起源

伝承によると
奈良時代、大和国の長谷寺(8番札所)の開基である
徳道上人が62歳のとき、
病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔様に会い、
生前の悪さによって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、
日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳
(悪いことから許される効果があるよ)があるので
巡礼によって 人々を救うように託宣を受け
とともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されたとか

そしてこの宝印に従って霊場を定めました
上人はこの三十三所巡 礼を人々に説くが
世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、
機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印
播磨の国・中山寺(24番札所)石櫃に納めてしまいました
そして三十三所巡礼は忘れ去られていったとか(仕事放棄しはったんか・・・)

その約270年後、平安時代  
花山法皇 
紀州の那智山(1番札所)で参籠していた折、
熊野権現が姿を現し上人が定めた
三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
(閻魔さんが権現さんにたのんだんやな)
そして中山寺で宝印を探し出し、
  
播磨国・書写山円教寺性空上人の勧めにより
河内国・叡福寺の仏眼上人を指導者として
三十三ヶ所霊場を巡礼したことから人々に広まりました

室町時代からその組み合わせは』以来、変化が無いとか
 
江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、
関東の
坂東三十三ヶ所や
秩父三十三ヶ所を併せて
日本百観音と呼ばれるようになり
これにより東国の巡礼者が増えました

ちょうどこの時代は伊勢参りなど旅行がブームでしたから
伊勢参り→熊野詣→西国へとなる人が多かったので
順番も那智の青岸渡寺から東国の帰路に着きやすい
美濃国の華厳寺をゴールにする形になったとか
すごく納得しました。。。

第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000km
頑張って満願めざします