鳳凰山 ウィキペディアより
鳳凰山(ほうおうさん)は山梨県の赤石山脈北東部にある3つの山の総称である。鳳凰三山とも呼ばれる。南アルプス国立公園内にあり、日本百名山[2]、新日本百名山[3]、新・花の百名山[4]及び山梨百名山[5]に選定されている。
概要
鳳凰三山を構成する山は、地蔵岳(地蔵ヶ岳)、観音岳、薬師岳である。地蔵岳付近南西に赤抜沢ノ頭、薬師岳付近南には砂払の小ピークがある。地蔵岳と赤抜沢ノ頭との鞍部は「賽ノ河原」と呼ばれ多くの小仏石が安置されている[6]。
山容 | 名称 | 標高 (m) | 三角点 等級 | 備考 |
---|---|---|---|---|
地蔵岳 じぞうだけ | 2,764 | (地蔵ヶ岳) じぞうがだけ オベリスク | ||
観音岳 かんのんだけ | 2,840 | (停止)[7] | 鳳凰山の最高点 | |
薬師岳 やくしだけ | 2,780 |
鳳凰山は赤石山脈の主脈からは離れており、山がある支脈は甲斐駒ヶ岳の南の駒津峰から始まり、仙水峠、アサヨ峰、高嶺と続く。山頂部は開けており眺めがよく、白峰三山、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳、秩父山地、甲府盆地などが眺められる。鳳凰山の東に視界を遮る山はなく甲府盆地が広がっているため、非常に開放感の高い山である。茶色っぽい山が多い赤石山脈の中で、甲斐駒ヶ岳とともに例外的に花崗岩の白い山肌となっている。
山名の由来
荻生徂徠『峡中紀行』、『甲斐国志』、野田成方『裏見寒話』、萩原元克『甲斐名勝志』など近世の地誌類によれば「鳳凰山」の指す山域は時代により認識が異なっており、地蔵岳のみを指す一山説、観音岳、薬師岳の二峰を指す二山説、三山すべてを指す三山説があり、山名論争が展開されてきた。山麓地域では一山説が一般的であるが後に山岳信仰の広まりに伴い三山説が浸透し、二峰を区別しがたい甲府近在で編纂された『裏見寒話』や甲斐国絵図類などにおいては二山説・三山説をとっている。 地蔵ヶ岳の山頂部は地蔵仏(地蔵岳オベリスク)と呼ばれる巨大な尖塔があり、大鳥の嘴に満たれられることから鳳凰の山名由来になっていると考えられている。地蔵仏はこの山域の象徴的存在で甲府盆地からでもその姿を見ることができる。地蔵岳山頂の2個の巨石が相抱くように付き上がっていることから、故人がこれを大日如来に擬して崇拝し法王山の名が付いたことが山名の由来であるとする説もある[2]。 757年(天平宝字元年)に、女帝孝謙天皇(奈良法王)が転地療養のために奈良田に来て法王山に登り、その山名が転化して鳳凰山になったとする説もある[6]。
歴史
- 764年(天平宝8年) - 孝謙天皇が奈良田温泉に滞在した際に鳳凰山へ登頂したと伝えられており[2]、古くから信仰登山の対象であった[8]。
- 江戸時代 - 山域北部では戦国期稼働の金鉱跡が見られ、山論が展開された。
- 1902年(明治35年) - 陸地測量部が、観音岳の山頂に二等三角点を設置した[9]。
- 1904年(明治37年) - 辻本満丸がホウオウシャジンを発見した[9]。
- 1906年(明治39年)7月15日 - ウォルター・ウェストンが地蔵岳のオベリスクの岩峰に初登頂[10][11]。
- 1932年(昭和7年)秋 - 深田久弥ら3名が青木鉱泉からドンドコ沢のルートで登頂[2]。
- 1964年(昭和39年)6月1日 - 山域は南アルプス国立公園に指定され、山の上部はその特別保護地区、山腹は特別地域となっている[12]。
- 1990年(平成2年)9月15日 - 田中澄江が登頂。その後『新・花の百名山』の著書で、タカネビランジとホウオウシャジンなどの高山植物と鳳凰山を紹介した[4]。