満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き

引きずる流れを、なんのこれしきと掻き

わけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅

の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、

ついに憐愍を垂れてくれた。押し流され

つつも、見事、対岸の樹木の幹に、すが

りつく事が出来たのである。

 

ありがたい。メロスは馬のように大きな

胴震いを一つして、すぐにまた先きを急

いだ。

 

一刻といえども、むだには出来ない。

陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい

荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり

切って、ほっとした時、突然、目の前に

一隊の山賊が躍り出た。


「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに

王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置い

て行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、

たった一つの命も、これから王にくれて

やるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち

伏せしていたのだな。」


 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒

を振り挙げた。メロスはひょいと、から

だを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人

に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、


「気の毒だが正義のためだ!」

と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、

残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠

を下った。

 

一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、

折から午後の灼熱の太陽がまともに、か

っと照って来て、メロスは幾度となく眩

暈を感じ、これではならぬ、と気を取り

直しては、よろよろ二、三歩あるいて、

ついに、がくりと膝を折った。

 

立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、

くやし泣きに泣き出した。

 

ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人

も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来

たメロスよ。真の勇者、メロスよ。

 

今、ここで、疲れ切って動けなくなると

は情無い。愛する友は、おまえを信じた

ばかりに、やがて殺されなければならぬ。

 

おまえは、稀代の不信の人間、まさしく

王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるの

だが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも

前進かなわぬ。

 

路傍の草原にごろりと寝ころがった。身

体疲労すれば、精神も共にやられる。

 

もう、どうでもいいという、勇者に不似

合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰

った。

 

私は、これほど努力したのだ。約束を破

る心は、みじんも無かった。神も照覧、

私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けな

くなるまで走って来たのだ。

 

私は不信の徒では無い。ああ、できる事

なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓を

お目に掛けたい。

 

愛と信実の血液だけで動いているこの心

臓を見せてやりたい。けれども私は、こ

の大事な時に、精も根も尽きたのだ。

 

私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっ

と笑われる。私の一家も笑われる。私は

友を欺いた。

 

中途で倒れるのは、はじめから何もしな

いのと同じ事だ。ああ、もう、どうでも

いい。

 

これが、私の定った運命なのかも知れな

い。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。

 

君は、いつでも私を信じた。私も君を、

欺かなかった。私たちは、本当に佳い友

と友であったのだ。

 

いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い

胸に宿したことは無かった。いまだって、

君は私を無心に待っているだろう。

 

ああ、待っているだろう。ありがとう、

セリヌンティウス。よくも私を信じてく

れた。それを思えば、たまらない。友と

友の間の信実は、この世で一ばん誇るべ

き宝なのだからな。

 

セリヌンティウス、私は走ったのだ。君

を欺くつもりは、みじんも無かった。信

じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで

来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲み

からも、するりと抜けて一気に峠を駈け

降りて来たのだ。

 

私だから、出来たのだよ。ああ、この上、

私に望み給うな。放って置いてくれ。

 

どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。

だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、

ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。

 

おくれたら、身代りを殺して、私を助け

てくれると約束した。私は王の卑劣を憎

んだ。けれども、今になってみると、私

は王の言うままになっている。

 

私は、おくれて行くだろう。王は、ひと

り合点して私を笑い、そうして事も無く

私を放免するだろう。

 

そうなったら、私は、死ぬよりつらい。

私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不

名誉の人種だ。

 

セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と

一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じ

てくれるにちがい無い。

 

いや、それも私の、ひとりよがりか? 

ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸

びてやろうか。

 

村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦

は、まさか私を村から追い出すような事

はしないだろう。

 

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみ

れば、くだらない。人を殺して自分が生

きる。それが人間世界の定法ではなかっ

たか。

 

ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、

醜い裏切り者だ。

どうとも、勝手にするがよい。やんぬる

哉。――四肢を投げ出して、うとうと、

まどろんでしまった。

 


 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞え

た。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳を

すました。

 

すぐ足もとで、水が流れているらしい。

よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目

から滾々と、何か小さく囁きながら清水

が湧き出ているのである。

 

その泉に吸い込まれるようにメロスは身

をかがめた。水を両手で掬って、一くち

飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から

覚めたような気がした。

 

歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、

わずかながら希望が生れた。義務遂行の

希望である。わが身を殺して、名誉を守

る希望である。

 

斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も

枝も燃えるばかりに輝いている。日没ま

でには、まだ間がある。私を、待ってい

る人があるのだ。

 

少しも疑わず、静かに期待してくれてい

る人があるのだ。私は、信じられている。

私の命なぞは、問題ではない。死んでお

詫び、などと気のいい事は言って居られ

ぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。

いまはただその一事だ。

走れ! メロス。