https://www.youtube.com/watch?v=wf4LiSnAD4k
メロスはその夜、一睡もせず十里の路
を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌
る日の午前、陽は既に高く昇って、村人
たちは野に出て仕事をはじめていた。
メロスの十六の妹も、きょうは兄の代り
に羊群の番をしていた。
よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の
姿を見つけて驚いた。
そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」メロスは無理に笑お
うと努めた。
「市に用事を残して来た。またすぐ市に
行かなければならぬ。あす、おまえの結
婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。
さあ、これから行って、村の人たちに知
らせて来い。結婚式は、あすだと。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、
家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席
を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸も
せぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起
きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、
少し事情があるから、結婚式を明日にし
てくれ、と頼んだ。
婿の牧人は驚き、それはいけない、こち
らには未だ何の仕度も出来ていない、葡
萄の季節まで待ってくれ、と答えた。
メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明
日にしてくれ給え、と更に押してたのん
だ。婿の牧人も頑強であった。なかなか
承諾してくれない。夜明けまで議論をつ
づけて、やっと、どうにか婿をなだめ、
すかして、説き伏せた。
結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、
神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を
覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やが
て車軸を流すような大雨となった。
祝宴に列席していた村人たちは、何か不
吉なものを感じたが、それでも、めいめ
い気持を引きたて、狭い家の中で、むん
むん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうた
い、手を拍った。
メロスも、満面に喜色を湛え、しばらく
は、王とのあの約束をさえ忘れていた。
祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やか
になり、人々は、外の豪雨を全く気にし
なくなった。
メロスは、一生このままここにいたい、
と思った。
この佳い人たちと生涯暮して行きたいと
願ったが、いまは、自分のからだで、自
分のものでは無い。
ままならぬ事である。メロスは、わが身
に鞭打ち、ついに出発を決意した。
あすの日没までには、まだ十分の時が在
る。ちょっと一眠りして、それからすぐ
に出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。
少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっ
ていたかった。
メロスほどの男にも、やはり未練の情と
いうものは在る。
今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁
に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、
ちょっとご免こうむって眠りたい。
眼が覚めたら、すぐに市に出かける。
大切な用事があるのだ。
私がいなくても、もうおまえには優しい
亭主があるのだから、決して寂しい事は
無い。
おまえの兄の、一ばんきらいなものは、
人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。
おまえも、それは、知っているね。
亭主との間に、どんな秘密でも作っては
ならぬ。
おまえに言いたいのは、それだけだ。
おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、
おまえもその誇りを持っていろ。」
花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロス
は、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家に
も、宝といっては、妹と羊だけだ。他に
は何も無い。全部あげよう。
もう一つ、メロスの弟になったことを誇
ってくれ。」
花婿は揉み手して、てれていた。メロ
スは笑って村人たちにも会釈して、宴席
から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、
死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃であ
る。
メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、
いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに
出発すれば、約束の刻限までには十分間
に合う。
きょうは是非とも、あの王に、人の信実
の存するところを見せてやろう。
そうして笑って磔の台に上ってやる。
メロスは、悠々と身仕度をはじめた。
雨も、いくぶん小降りになっている様子
である。身仕度は出来た。
さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく
振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。殺される為に
走るのだ。身代りの友を救う為に走るの
だ。
王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。
走らなければならぬ。そうして、私は殺
される。
若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさ
と。
若いメロスは、つらかった。幾度か、立
ちどまりそうになった。
えい、えいと大声挙げて自身を叱りなが
ら走った。
村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、
隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高
く昇って、そろそろ暑くなって来た。
メロスは額の汗をこぶしで払い、ここま
で来れば大丈夫、もはや故郷への未練は
無い。
妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。
私には、いま、なんの気がかりも無い筈
だ。
まっすぐに王城に行き着けば、それでよ
いのだ。そんなに急ぐ必要も無い。
ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを
取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出
した。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろ
そろ全里程の半ばに到達した頃、降って
湧いた災難、メロスの足は、はたと、と
まった。
見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の
水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、
猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響き
をあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね
飛ばしていた。
彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと
眺めまわし、また、声を限りに呼びたて
てみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影
なく、渡守りの姿も見えない。
流れはいよいよ、ふくれ上り、海のよう
になっている。
メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣
きながらゼウスに手を挙げて哀願した。
「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを!
時は刻々に過ぎて行きます。
太陽も既に真昼時です。
あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行
き着くことが出来なかったら、あの佳い
友達が、私のために死ぬのです。」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如
く、ますます激しく躍り狂う。
浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうし
て時は、刻一刻と消えて行く。
今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他
に無い。
ああ、神々も照覧あれ!
濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、い
まこそ発揮して見せる。
メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百
匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を
相手に、必死の闘争を開始した。
