こんばんは、
タイトルにも書きましたが、最後の投稿が
2020年3月24日でした
びっくりしました、2年前・・?
プラス、9ヶ月・・?
2年9ヶ月前?本当?
今年は、多分、
今までで1番文章を読んで、文章を書いた年でした。
文章を書いた年、とはいいつつ、それは何かに載せるということではなく、本当にひとりごとのようなものを、たくさん書きました。
文章が、たった一言が、人に与える影響というものについて、考えることが多かった。
気付いたら、考えていた。というか、考えるということから、逃げれませんでした。
怖かったです。
何が怖いって、何かを書くということは、人のことを幸せにできることもあるし、反対に、不幸せにしてしまうこともあるのだ、と、この歳になって初めてリアライズしたというか・・。
考えたら、考えるほど、私が何か書くことによって人のことを傷つけたり不幸せにする可能性があるのか、と恐ろしくてたまらなくなりました。
何も発信したくないし、誰とも話したくないと、随分長い間、思っていました。
そもそも発信する、って何?偉そうだなぁ、恥ずかしー、と思っていました。
そうした毎日を送っていると、ぜんぜん、世界が違って見えました。
あんなに、すてきなものに溢れている世界が、いなくなってしまいました。
どうしよう、と困ってしまい(ずっとお化け屋敷にいるような怖い時間だった)、かつてすてきだと思ったものたちに手を伸ばしました。
食べものや香りや場所ももちろんですが、文章をたくさん読みました。何度も何度も読んで、暗記しているようなものも含めて、手で、紙をめくって、本を読みました。
そうしていると、また少しずつ、世界にすてきなものがあふれてきました。
好きな絵本の挿絵の、おばあちゃんのほっかむりのギンガムチェックとか、
イギリスとアメリカのくすっとくる文通事情とか、
チョコレートに信じられないくらい執着するエッセイとか、
そういうものから、書(描)いた方の愛情がこれでもかと透けて見えて、たまらなく私は幸せになりました。
文章が、一言が、人に与える影響は、ネガティブなものだけなのだと知らず知らずのうちに信じて疑わなくなっていて、でもどうやら"だけ"では、ないのかもしれない、と思いだしました。
どんなに気をつけたとしても何かを書く、言う、つまり発信してしまう以上不幸せにしてしまうのは、もちろんあるけれど(この文章も)
幸せにすることももちろんあるのだ、と段々理解していきました。
すてきなものに溢れている世界が、かえってきました。
これは、今、突然時間が空いたので、なかば衝動的に書いています。
特にオチはないのですが、12月ももう半ばって、もうとにかく、師走感がすさまじいじゃないですか、なんだかとても焦るし、クリスマスはもちろんドキドキワクワクだけれど、でも確かにザワザワもするじゃないですか!(私だけでしょうか)
意味もなく悲しくなることもあるよね。(私だけでしょうか・2)
でもなにか自分が幸せになるような発信をしてくれている人って、必ずどこかにいるよね。
それは本の中かもしれないし、
インスタグラムの中かもしれないし、
厨房にいるかもしれないし、
高島屋の1階から8階のどこかかもしれないし。
ひょっとしたら、自分の書き残した、メモや日記に見つけられるかもしれない。
誰かの発信に傷ついて、
誰かの発信に癒されて、
誰かを幸せにしたくて発信して、
誰かを発信によって不幸せにしてしまって、
また誰かの発信によって幸せにしてもらって。
ずっとけっきょくぐるぐる回ってるのかもしれない、そんなこと、当たり前なのかもしれないけれど、私は34歳でやっとなんとなく気づけた・・
これからも私は何かに心が動かされたら、2年9ヶ月空いたとしても、今さら?と思っても、衝動的に何かを書きたいかもしれない、と今思いました
水よりも透明感のある、美しい文章の書いてある本。
かみさまへのてがみは、有名すぎてあれですが、でもやっぱり、読むときどきでグッとくるてがみが違うね
あれ、本当にオチがない。
まぁいいや、では、また〜。