だれでも通る道だとは思うけども。。
段差がないバリアフリーは便利、見た目もすっきり綺麗。つまずいて転んだら危ないから。
気が利いてよく働くお嫁さんの理想像は素敵。お義母さん、座っていてください。
高齢なので柔らかい食べ物、噛まなくてもいい刻み食やお粥を毎食作る。。
○○しなくていいように気を利かせる優しさ
実は、しないから出来なくなっていく花道を周りが作ってしまっている。。
段差がないから、足を上げなくなる、
かまなくていいものを作るから噛む力がなくなる、噛まなくなると消化する力も落ちていく、脳の働きも落ちていく。
刻んでしまって、食材や料理の原型がなくなると、視覚からの情報が入らなくなり食欲も沸かなくなっていく。味付けは美味しいけど何を食べているのかよくわからなくなってしまう。
食感って味と同じように大事なものというか、食感も味の一部。歯触り、舌触り、柔らかさ、固さ。
見た目きゅうりなのに、丸かじりしたら温かくてグニャっとしてたらびっくりするよね、味はきゅうりだけど。。ってこと(笑)例えは逆ですが想像しやすいかなと。。
ほんとはそのままでも食べられるものなのに、必要以上に手をかけてしまってはいませんか? ポテトサラダなのにさらに刻んじゃうとかミキサーにかけちゃうとか
文字を忘れたと言われて、かわりに書いてあげてしまっていませんか?
ヒントの声かけですんなり思い出したら書けちゃったり
声かけと見守りでできることを、かわりにやってあげてしまっていませんか?
それは、親切ではなく、相手のちからを奪ってしまっていること。
やってもらったら本人も楽だし喜ぶから、
ありがとうといわれると、やってあげたほうも嬉しいから、と
実は、本人のやる気をなくさせているかもしれないし、できないと思い込ませてしまっているかも。
誰もいないと自分でやってるし、ちゃんと歩いてる(笑)そのへんをよくみて、できるとこ、できないこと、ほんとにあぶないこと、をちゃんと観察して見極めることが大事、本人が自分で危ないと思っていることは、案外慎重にやっていたりするので意外と大丈夫だったりします。
むしろ、本人が大丈夫だと思い込んで油断していることの方が危険だったりするので、そこに周りが気づいていてあげること、声をかける、ほんとに危ないときは手を貸す、助けることは必要です。
相手が、なによっ、って不機嫌になることもあるかもしれないけど、自分で出来た方が自由だし、かわりにやってあげちゃうよりも、出来る方法をそれとなく提供する方が、手助けになること、
感謝なんてされなくたって、べつにいいんじゃないか?ってこと。本人にとって、どっちがいいかを考える方が、よっぽど親切なんじゃないかと思ったりするのでした
鬼嫁だっていいじゃない?『いい人』を卒業するのも悪くないですよ。。