「海上自衛隊の艦艇がインド洋とアデン湾で任務に就き、北朝鮮のミサイルを撃ち落とすか否かを日本政府が本気で考える。そんな事態を、冷戦体制が崩壊する1989年の時点で誰が予測したであろうか」―4月5日付けの毎日新聞二面「時代の風」を感動的に読んだ。「予測超えた20年の情景」との見出しで、日本の安全保障を論じた五百旗頭真防衛大学校長の一文である。冷戦後の20年を振り返ったとき、その都度の一歩は、小さすぎ、遅すぎるものでしかないとも見えたが、ずいぶんと進んだとの実感を持つと言われる。


 五百旗頭さんが言われるように、「自衛戦争と侵略戦争しか意識しなかった戦後日本に、そのいずれでもない世界の平和と安全のための国際協力活動というカテゴリーが加えられ、冷戦後の日本はそれに参画することになった」のが、ある意味で、全ての出発点に違いない。PKO協力法(国連平和維持活動協力法)制定に際し、参加「五原則」を法律に入れ込むという難作業をやってのけた市川雄一公明党書記長らの戦いがあったればこそ、あのカンボジアPKOにおける明石康さんの仕事も、自衛隊員らの活躍も可能になった。後のイラク・サマワでの人道復興支援活動も、仮に紛争に巻き込まれたら、撤退するとの考え方も、「五原則」から類推されたものであったし、周辺事態法における考え方も同じく、いわゆる「雨宿り論」に基づくものである。これらは、公明党が政権に参画したればこそ可能になったとみるのが、自然である。


 旧左翼政党はいうに及ばず、その流れをひく人々の存在する民主党は、自衛隊を海外に派遣することや周辺事態に立ち向かおうとすると、必ず紛争に巻き込まれ、憲法の禁じる集団的自衛権に抵触するとの立場から批判、攻撃してきた。また、伝統的な国家主義的な流れを汲む保守主義者からは、生ぬるい対応だとの批判を浴びてきた。要するに左右両翼の攻撃を受けながらもここまでこれたのは、いつにかかって公明党の力だというほかない。決して大げさではない。


 五百旗頭さんがそこまで書かれていないのは残念だが、きっと認識は同じくしておられるものと信じる。こうした生き方こそが、新しい平和主義であり、行動する平和主義だと、週末に三田市、神戸市垂水区で開いた議会報告会で語った。