故郷に錦を飾ったつもりだったが? ⑥ | akm48

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akm48  ず~っと勘違いの人生で〜す

勘違いはお笑いの原点、悲しみの原点、成功の原点、失敗の原点

清は会社立ち上げ当初、早朝6時に出社し、夜は12時まで寝食を忘れて懸命に働いた。
しかも、自分自身はほぼ無報酬の状態にもかかわらず、日曜、祭日の休みもとらなかった。
経営に際しては、不足していた乗務員を広く募り、新車購入を計画。
車両の購入には頭金を払っての月賦払いを活用し、組合員の稼ぎと新車購入の支払いを緻密に計算しながら毎月1~2台づつ車両を増やし、拡大路線を敷いた。

その結果、組合スタート時には 16 台しかなかった車両*が、3年後には 70 台にまで増加した。
*②仕事熱心で「働き者」
 ③仕事熱心は他人から評価されるくらい

 
また、運転手の生活安定を経営方針に掲げた相互タクシーは、タクシー業界で初めて公休制を導入し、それまで業界が全く手をつけなかった従業員の福利厚生面にも革命的な進化をもたらした。
*①労働条件の視点を持っていた

そして、創業から5年後の昭和11年には、大阪・関目の地に3,000坪の土地を購入し、車両100台を駐車できる大規模な車庫と従業員が居住できる社宅を建設して、“一大タクシー村”をつくり上げたのだ。
そうした手厚い従業員の保護と家族主義的経営もまた、清の豊富なアイデアの産物である。


運転手たちは家族総出でお客に対応するという思想のもと、自ら車両や資材などの手入れを行い、修理も自分たちで手がけた。そうすることで、他社が1~2年で新車を買い換える時代に、相互タクシーは4~5年もの長い間、車両を走らせることができた。

 だが、企業家・多田清を知る上で、困難な時代こそ、先を明確に見通す「先見の明」が大いに参考になる。

例えば、日中戦争で世間が日本の将来を案じている時、清は部下に迷わず「タイヤをぎょうさん買っておけ」と命じている。

そして、清はオイル不足を見越して、いちはやく「木炭自動車」の研究に取り組み始めた。

イギリスの文献を手がかりにガス発生炉の試作を行い、幾度となく行き詰まったが、そのたびに欠陥の原因を粘り強く探って、新しい考えが浮かぶと、また試作・実験を繰り返した。

そのうち彼にも召集令状が届き、軍隊に入隊するが、それでも研究を諦めなかった。
*大阪商工会議所 会員企業一覧 多田清より

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 〇柳 児 
  汗びちょで 若き乙女が レスリング

    *いいねぇー、女子は全員メダリスト
     日本のオナゴはつよーい!

  なでしこが やり投げ制し 金メダル
    *陸上競技で金メダルとはす~ごい
     大谷翔平は昼寝、北口榛花は寝そべり
     寝る子は育つ


〇小 彦
  百年も 三十年もある ヨーロッパ

    *七年戦争も薔薇戦争もあった
     チューリップ戦争(バブル)なんてのもあった
     貞操帯戦争(十字軍)もあって鍵をなくしちゃった

  この戦争 勝っても負けても 裏しみる
    *ゼレンスキーの名はウクライナ語でウォロディミル
     ロシア語ではウラジミール
     プーチンの名はウラジミール
     ウラジは支配する ミールは世界、平和
     こいつら勝手にバンバンやりやがって!


 〇リタイアボケじいさん
  リタイア後 第二の人生 ジム通い

    *このオッサン鍛えているから手のちょっとした
     仕草でも当たると痛いんじゃ


〇忘己利他老
  どこ行った ビル屋上の ビヤガーデン

    *昔はあちこちのビル屋上にビヤガーデンがあった
     東京なんぞにはお姉ちゃんの「泥んこプロレス」もあった
     行こうと思っていたら無くなった
     今は暑すぎてどこにも出られない

 
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