こんにちは、

アニマルコミュニケーターのあきです。

 

 

 

今日も今日とて瞑想をしていたんですが、

じいちゃん、ばあちゃんのビジョンがみえてきました。

 

そしてそのビジョンは動物へと続いていきました。

 

「命の在り方」についてだったので

書かせてもらいます。

 

 

 

瞑想をしていると

みえてきたのはもう亡くなっている

じいちゃんとばあちゃん。

 

2人とも病気で亡くなったのですが

ビジョンの中では

わたしが小さいころの元気な2人の姿でした。

 

 

病気になって辛い姿が最期でしたが

みえた姿は元気な姿。

 

肉体を卒業した魂は

自分の好きな姿を自由に選ぶことができるため

 

わたしにとって一番馴染み深い姿で

現れてくれたのかもしれません。

 

 

 

そしてそこで伝わってきたのは

 

「循環」という言葉。

 

 

地上に置いて

どんなに悪く苦しいと思われる状態も

そのまま変化をしないことはない。

 

 

良い、悪いは変化し循環するもので

それが固定されることはない。

 

それは「死」にも当てはまる。

 

 

死ぬことと生きることは循環しあっていて

生まれることも死ぬことも

本当はない。

 

 

肉体のあるレベルでは

死ぬ、生まれる、として見えていることも

 

本当はどちらもなく

魂(ワンネス)が循環しているだけ。

 

 

 

では、なぜ死ぬことを経験するのか?

 

 

それは生きることを知るため。

 

死ぬというものを知らないと

人は本当の意味で生きることができない。

 

 

本当は

死ぬも生まれるもないのに

 

肉体を持ち自我を手に入れることで

それらを知ることができるのだと。

 

 

矛盾していて

無意味に思われる行動のようにみえるけど

そこには大切な意味があるらしい。

 

 

その意味は「知ること」としか

わからない。

 

 

そしてこの「死」というのは

自分の死が初めての死の経験、

ということのないようにできている。

 

 

わたしの場合の大きな死の学びは

じいちゃんと愛犬の死だった。

 

 

周りの人の感覚に馴染めなくて

苦しみながら生きていた10代前半のころ

 

この2人がわたしにとって

生きる理由になるほど大切で

ずっと味方でいてくれた。

 

その存在を失うことは大きなダメ―ジを受けた。

 

 

 

それが恋人の死だったり

両親の死だったり

友人の死だったり、

 

 

人によって経験するシチュエーションは

様々だ。

 

 

身近な死に立ち会ったことがない

という人でも

必ず「死」は経験させられている。

 

 

人間は食事をとらないと生きていけない

生きるためには食事をする

 

食事でとるもの、

それは他の命である。

 

 

 

死の経験を自分以外で

絶対的に経験させられるようになっているのだ。

 

 

他の者の死を経験する前に

生まれたばかりで

天へ旅立つ赤ちゃんなどは

今回は別の使命があるとしてほしい。

 

 

多くの人間にとって

他の存在による「死」を学んだ先に

自分の「死」がある。

 

 

それは別に悲しい経験をさせるためだけに

起こっているのではない。

 

 

死を考えることは

生きることを考えることなのだ。

 

 

誰か大切な存在が死んだとき

「この人はわたしに○○を教えてくれた」と

考えたりする。

 

その人が生きた意味を考えるのだ。

 

そして

「自分はどう生きたいか」を

考えることになる。

 

 

そして人はそのとき確かに

「自分はこう生きる」と決めたことでも

いつの間にか忘れて

なぁなぁに生きる。

 

 

なぁなぁにならないためには

「死」を自分から無理に突き放さないことだ。

 

死は当然のことで

当たり前に自分のそばにある。

 

あるのにみえないフリをしていても

気づけないことが増えるだけである。

 

 

 

わたしが思うに「死」というのは

自分以外の誰かのためにある。

 

 

自分が死ぬとき

わたしは何を遺したいか?

 

自分の死が何に繋がってほしいか?

 

 

そう思うことで

思ずと自分はどう生きたいのかが

みえてくる。

 

 

 

そして結局

誰かのために自分の死はあるんだと思っていても

 

それは同時に

自分の命を使って何かをしたい

自分のためでもあるんだ、と

 

誰かのためというのは

自分のためであることと変わりないことに気づく。

 

 

 

 

身近な存在を亡くすというのは

本当に本当につらいことだ。

 

しかし実は「死」はなく

命が循環しているだけだと知り

 

その循環の中でその命に

出逢ったことで

自分の「生」を考え

 

また自分の「死」で

誰かに何かを繋いでいく。

 

 

 

誰かの「死」に直面するたびに

あなたはどう生きますか?と問われる。

 

食事をとるたびに

あなたの命はどう使いますか?と

問われる。

 

 

 

「生」を教えてくれるために

祖父母や両親、家族の動物というのは

 

多くの場合

先に死んでいく役目を持っている。

 

 

そして祖父母もいつかは

自分の祖父母によって経験させられ

 

あなたも今は違う立場であっても

祖父母の立場になったりする。

 

それも循環なのだ。

 

 

 

ペットがいる人は

「この子はわたしより先に死んでしまう、

怖い、悲しい」

ということを一度は考えたことがあると思う。

 

 

「死んでしまう」ということに

焦点をあてるのであれば

 

「死」とコインの表と裏のような関係である

「生きている」ことも同時に考えるべきだ。

 

 

 

「死」がなければ

生きている時間を大切には思えない。

 

色んな

楽しさも幸せも経験できないのだ。

 

 

この子が生きている、というのは

死が訪れるからできることで

 

 

生も死もいらない、となれば

肉体を持っていることはできない。

 

 

 

 

本当は魂は死も生もなく

ただ至福の中で永遠と在るが

 

肉体を持っている以上

死と生は訪れる。

 

自分は肉体を持っているのだから

死も生も経験する。

 

 

その中で

他の命に何を教えてもらって

 

自分の命をもって

何を紡いでいきたいのか?

 

それを意識してみる。

 

 

あなたの身近な人、ペットさんは

 

命をもってあなたに何を教えてくれましたか?

 

そして教えてくれてますか?

 

 

 

 

虹の橋を渡った動物さんと

お話させてもらったとき

 

「一緒にいた時間が宝物だよ。

思い出がある限り僕は生きているよ」

 

ということを言ってくれた子がいました。

 

 

一緒にいた時間の中で経験した

愛や優しさ、楽しさ

辛い経験

 

それはその子の肉体がなくなっても

飼い主さんが紡いでいけるものだから

なくなることはない、と言っているのです。

 

 

辛い経験をすることで

理解してあげることができる誰かの心

 

自分が経験したような

辛い気持ちに埋め尽くされている人に出会ったら

 

あの子と一緒に学んだ

自分以外を愛することや親切にすることを

再現してあげればよいのです。

 

 

その行動をとる中に

あの子の存在が在るのです。

 

 

死をもって生を知る。

 

 

 

 

ではでは、

良い夜をお過ごしください流れ星キラキラ