Take it Easy

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三度の飯より旅好き、映画好き。
本と映画と旅行の話が半分、日々の徒然話が半分。
不定期にひっそり更新中です。

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最後の日記を書いてから、なんと3年近くの月日が経っていた。

ジュンパ・ラヒリの最新作「低地」を読んでいたら、なんだか無性にバングラが懐かしくなって、

恋しくなって、当時の日記を読み返したくなって、このブログの存在を思い出した。


帰国してから早2年半が経つ。仕事を辞めて東京生活にお別れしてから、早5年。

今は毎日、お弁当を持って学校へ通っている。クラブも夜遊びも飲み会も、すっかり遠のいた。

もし、バングラへ行っていなかったら?と考えてもあまり意味がないのだろうけど、

バングラから帰国してからは、なるべくシンプルに、地味に生活したいと思うようになった。

華やかに見える世界、他人から注目されること、目立つこと、成功すること、美味しい食べ物、

東京に住んでいた頃は、そういうものを欲しがることが当たり前だと思っていた。

でも、バングラへ行って、ベンガル人の生活と、それから何人かの風変りな日本人との接触が、

少しづつ、私の考え方を変えていったのだろう。変化は緩やかで、当時は気づかなかった。


帰国が近づき、任地を離れる日、予想していたような、予想外のような感じだったけど、

ダッカに向かうバスの中で号泣した。それから、帰国当日、空港でも号泣した。

年をとると涙もろくなるというが、それにしても泣きすぎなくらい泣いた。自分でも不思議なくらい。

帰国して、だいぶたってからも、たまにバングラのことを思い出して泣きそうになることがある。

バングラに住んでいた2年間の、半分くらいは嫌なことやむかつくことや疲れることだったのに、

じっとりとした暑さ、カレーの匂い、アザーンの響き、甘いドゥッチャ、近所のひとたちとの世間話、

リキシャでよく通った道、バイクで走った田舎道、わけのわからないお祭りと歌と踊り。

まるで、子ども時代を懐かしむように、もうここ(日本)では手に入らないそれら全てが愛しい。

団地が並ぶ、味気ないベッドタウンで育った私は、経験してみたかった子供時代の生活風景を

バングラに重ね合わせているのかもしれない。


ジュンパ・ラヒリはアメリカで育って、自分自身を「アメリカ人」だと認識している人だから、

彼女にとってのコルカタは、私にとってのバングラと少し似ているのだろうか、と思った。

生まれ育った場所ではないからこそ、より鮮明に記憶されるというか。

主人公の母親が、かたくなに家を守り、息子の墓を毎日掃除する様子などは、

知り合いのベンガル人のおばちゃんも、同じ状況にあればきっとそうするであろうと思われた。

土地と強く結びついた人生、母親と息子の結びつきの強さに、バングラを思わずにいられない。


「低地」では、主人公の弟の死が、最後まで物語の重要な要素となって描かれる。

祖母が亡くなった時、私は初めて近親者の死を経験した。

祖母の生き方を尊敬していた分、喪失感が大きかった。

亡くなってからの方が、生前よりも祖母の存在を大きく感じるようになった。

弟は若くして殺され、人生を終える。兄も弟の妻も、その後も何十年と生き、年を重ねていくのだが、

弟の死は、何年経っても、その重みを失わず、残された者たちに意識することをやめさせない。

年明けにブログを更新してから、早10ヶ月以上が過ぎようとしています。

正直、もうこのブログは必要ない、と思うこともあったけれど、やっぱり必要だったみたいです。

今まで通り、ひそかに何か書きたいことがある時に。



バングラに来て約1年8カ月。ここでの生活も残り4カ月。

振り返ると最初の1年は、職場のボスとの関係とか、活動とか、ストーカーまがいの少年とか、

上手くいかないことが多すぎて、ダッカで美味しいものを食べておしゃべりするのが息抜きだった。

残り半年を過ぎた頃から、本当の意味でここでの暮らしを楽しめるようになってきた気がする。

4月から作成を始めた住民組織のビデオドキュメントも、ようやく上映できるようになったし、

コンポストはどうなるか分からないけれど、ミミズもぼかしも一応ぼちぼち進んでいる。

配属先の意味不明な要望、「デジタライぜーション」に関しても、なんとかウェブサイトはアップできたし、

これでボスもカウンタ-パートも少しはいい気分だろう。


仕事が少し充実してきたからかもしれないけど、任地での生活を今はとても楽しんでいる。

近所をぶらついて知り合いと雑談したり、ベンガル語の歌を習ったり、ご飯食べさせてもらったり。

体力的にも、心理的にも、言語能力的にも、余裕が出てきたのだろうと思う。

家に一人でいるよりも、誰かと一緒にいるほうがいい、自分がそう感じていることが不思議だ。

協力隊だから、とか、言葉の上達のため、とか、そういうちょっとした義務感からではなく、

もっと素直に、人とのささやかなつながりを求めている、のかもしれない。

もしくは、残りの滞在日数を意識して、少しでもバングラを感じたい、というだけの理由かもしれない・・・。

いずれにしよ、心が穏やかである、最近は。

正直、もう少しいたい。任期延長?とかもちょっと考えたりしたけど、やっぱり帰るのだろう、自分は。

もうここであんまりバイクに乗りたくない。



そう、先日バイクで事故った。幸いにもケガはほとんどなく、バイクも1日で修理完了だった。

でも、今思い出しても、背筋の凍る瞬間だった。バスが自分を目がけて向かってくるあの感じ・・・。

今日も普通にバイクを運転したけれど、やっぱり以前よりもバスが恐い。

周りのベンガル人からは、「アラーが君を生かしてくれた」と言われた。「物乞いに寄付しろ」とも。


物乞いの方にお金を渡すことに関して、これといったポリシーを持っていない。

あげる時もあれば、あげない時もある。ただ、お金をあげている自分を見られるのがあまり好きじゃない。

でも、これからはたぶんあげると思う。イードの時みたいに行列になっている場合を除いて。


世界は基本的に不条理にできていて、恵まれてる人がいれば、そうでない人もいる。

でも私は、死後の世界とか、魂とかは信じてないから、この世の苦労が後世で報われるとも思わない。

じゃあ、この不条理に自分はどう立ち向かうのだろう。どう理解するのだろう。


幸せか不幸かは簡単には判断できないけど、富める者と富めない者の差は現前としている。

そして私は、日本という物質的に豊かな国で生まれ、それなりに恵まれた家庭環境で育ってきた。

親の金で大学へ行き、留学までさせてもらい、3年半働いた会社でも大変だったけどいい思いもした。

もちろん、自分でも努力したつもりだけど、そんなのは実際のところ大した要因ではない。


それ以上に運が良かったのだと思う。

ただそれだけのこと。運が良かった。


だから、誰かに、何かの形で恩返ししなきゃいけない。



前回の日記で自問自答した内容の、自分なりの答え。



2011年、明けましておめでとうございます。


年末は12月中旬から2週間、ネパールへ任国外旅行へ行き、同期たちと再会を果たした。

年越しは、バングラの首都ダッカで紅白を鑑賞。知らない曲ばかりで、気分は浦島太郎。

そして昨日、3週間ぶりに任地の我が家へ。新年早々、再び謎の咳に苦しんでいます・・・。

カトマンズの空気の悪さが原因か、はたまたちびちび吸っているバングラ産タバコのせいか。

いずれにしろ、喉からではなく肺からやってくる咳に少々不安です。


2010年は、ネパールの山の上で28歳の誕生日を迎えました。

寒くて死にそうで、途中何度か、誕生日にこんな過酷な場所に来たことを後悔したけれど、

でも朝日に照らされた山の姿がほんっっっとうにキレイで感動的だった。

2009年の誕生日は母とマチュピチュで山登り。今年はネパールの山で。

なので、2011年の誕生日もどこかの山で迎えたいなーと思う。



そして、今回、改めてバングラを離れてみて、違う国で感じることも多々ありました。

ネパールで何よりも印象に残ったのは、厳しい自然条件で生きる人々の姿。

山だらけのネパールで、実際に山で暮らすというのは、想像以上に大変。

インフラは当然不十分で、水も電気も、バングラ以上に手に入らない。

そして、山道にはリキシャなどなく、老若男女みな、何時間も歩いて移動する、モノを運ぶ。

バングラの私の任地では、村でも水はけっこう安定して手に入るし、

平らな土地なので、リキシャでもバンガリでも、交通の足はなんとかなります。

そんな低地生活に慣れてしまい、すっかり身体がなまっていることにも気付かされた・・・。


それから、私たちの3泊4日のトレッキングに同行してくれたネパール人のポーター。

(そもそもポーターという職業を知らず、10キロ近い荷物を自分で背負って登るつもりだった。)

普通に登っても死にそうになっている私。ポーターは15キロ近い荷物を背負って登る。

体力勝負。本当に本当に大変な仕事だと思う。私にはできない…。ただただ尊敬、です。

観光産業に頼っているネパールでは、ポーターはけっこうメジャーな仕事らしい。

ポーターだけでなく、山に住むおばちゃん達も、素足やサンダルで重い荷物を持って山を登る。

たぶん、ネパールではあたりまえの光景。でも、私には衝撃的だった。



そして、改めて、超今さらだけど思った。私ってとてもぜいたくな世界に生きている。

バングラで生活していて、なんとなくこの国の暮らしにも馴染んできていたけれど、

フタを明ければ、任国外で羽を伸ばし、ダッカでは任地での1週間分の生活費を使って毎食、

美味しいものをたらふく食べている。

28年間日本という超ぜいたくな社会で生きてきて、手放せないものがある。

別にブランド物とか高級品には興味無いし、すごい金持ちになりたいとかも全然思わない。

最低限、自分がやりたいことができればいい。

だから自分がぜいたくな人間だとは思ってなかった。でも


たまには美味しいモノが食べたい。

たまにはキレイなお洋服が着たい。

たまにはライブに行きたい。

たまには海外旅行にも行きたい。

せまくてもキレイなお家に住みたい。


私は、こういう欲求を捨てられない。そう、しょせん私はマテリアルガールなのです。

日本人が幸せで、バングラやネパールの人が可哀そう、という風には思っていない。

彼らは彼らなりの生活をし、ある人は幸せである人は幸せではないかもしれない。

時には幸せで時には不幸かもしれない。日本にいてもでもどこにいても、それは同じことだ。

でも、マテリアルワールドを捨てられない自分。

戻るべき場所は日本(か、ある程度便利でエンターテイメントのある国)だと思ってる。

ネパールの山でも、バングラの村でもなく、日本でよかった、とどこかで思っている。

そんな自分が、ボランティアという肩書で何の技術も持たずバングラに来て、

何か役に立ちたい、なんて言うのはとてもおこがましいことじゃないか、とたまに思う。

そんなこと、自分に言う資格があるんだろうかって。

そしたら国際協力は偽善とでも言いたいのか?というと、別にそういうわけではなく…。



ただ、漠然とした疑問。

金とモノにあふれた日本社会と、そうでない国たち。

1日働いて150TK(約200円)を得るバングラの村人と、時給900円の日本人。

ネパールの山を登り降りするおばちゃんと、東京の地下鉄に揺られる私。

この絶対的な違いは何だろう?どこから来たんだろう?って。

歴史的な背景とか、国家間の経済的格差とか、説明するべき要因は山のようにあるし、

それを今さら知りたいわけではない。そういう理論的な話は専門書を読めば分かる。

でも、誰も教えてくれない。

なんで、私は日本で生まれて、彼らはバングラで、ネパールで生まれたのか?


神様のいたずらか。それともやっぱり人は生まれるべくして、ある社会に生まれてくるのか。

だったら私がぜいたく社会に生まれた意味は何なのか。

なんて、とても根源的な質問に行きあたってしまう。

でも、結局のところ意味なんてものは後付けでしかない。



私の信じるやり方で、何でもいいから社会の役に立つことがしたかった。

だから前の仕事をやめた。でも、協力隊に来たのは、それが答えだと思ったからじゃない。

もっと広い世界を知りたかった。世界で何が起きているのかを見たかった。

本当に助けを求めている人に、援助の手が届いているのか、それを自分の目で確めたかった。


2010年、駒ヶ根での訓練から始まり、バングラでの10ヶ月が過ぎていく。

変化の多かった年、と言うべきだけど、何かを変えてもいないし、変わってもいない。

変えたいのか、変えるべきなのか、それも良く分からない。

でも、私がこうやって一人でぐるぐる考えていることって、簡単に答えの出ないことばかりで、

その答えを待っていたら2年間の任期なんてすぐに終わってしまうってことに気付いた。



新年早々、ある人に言われたこと。


ある人「やりたいことをやったらいいんだよ」

私「やりたいことって言っても、分かりません。  

  ただ、いつも忙しくても私を村に連れて行ってくれる同僚たちとか、  

  そういうベンガル人に恩返しがしたい。」

ある人「じゃあ、それがあなたのやりたいことだよ」


バングラに来て、毎日いろんなものを見ながら、ますます分からなくなる。

安易な結論に逃げたくなる。でも、もっとぶつかっていかなくちゃ。

この先の自分の人生を不安に感じたり、答えの出ない問いに頭を悩ますのもいいけれど、

とりあえず、身近なベンガル人に喜んでもらえそうなことを、思いついたらやってみる。

空振りでもいい。バングラはきっとそんな私でも受け入れてくれるはず。


2011年の目標。ベンガル人に恩返し。そしてベンガル人と思い出づくり。



28歳初日の出

Take it Easy-プーンヒル1
山がきれい


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雲海もきれい


Take it Easy-プーンヒル3
ぜんぶきれい