2011年、明けましておめでとうございます。
年末は12月中旬から2週間、ネパールへ任国外旅行へ行き、同期たちと再会を果たした。
年越しは、バングラの首都ダッカで紅白を鑑賞。知らない曲ばかりで、気分は浦島太郎。
そして昨日、3週間ぶりに任地の我が家へ。新年早々、再び謎の咳に苦しんでいます・・・。
カトマンズの空気の悪さが原因か、はたまたちびちび吸っているバングラ産タバコのせいか。
いずれにしろ、喉からではなく肺からやってくる咳に少々不安です。
2010年は、ネパールの山の上で28歳の誕生日を迎えました。
寒くて死にそうで、途中何度か、誕生日にこんな過酷な場所に来たことを後悔したけれど、
でも朝日に照らされた山の姿がほんっっっとうにキレイで感動的だった。
2009年の誕生日は母とマチュピチュで山登り。今年はネパールの山で。
なので、2011年の誕生日もどこかの山で迎えたいなーと思う。
そして、今回、改めてバングラを離れてみて、違う国で感じることも多々ありました。
ネパールで何よりも印象に残ったのは、厳しい自然条件で生きる人々の姿。
山だらけのネパールで、実際に山で暮らすというのは、想像以上に大変。
インフラは当然不十分で、水も電気も、バングラ以上に手に入らない。
そして、山道にはリキシャなどなく、老若男女みな、何時間も歩いて移動する、モノを運ぶ。
バングラの私の任地では、村でも水はけっこう安定して手に入るし、
平らな土地なので、リキシャでもバンガリでも、交通の足はなんとかなります。
そんな低地生活に慣れてしまい、すっかり身体がなまっていることにも気付かされた・・・。
それから、私たちの3泊4日のトレッキングに同行してくれたネパール人のポーター。
(そもそもポーターという職業を知らず、10キロ近い荷物を自分で背負って登るつもりだった。)
普通に登っても死にそうになっている私。ポーターは15キロ近い荷物を背負って登る。
体力勝負。本当に本当に大変な仕事だと思う。私にはできない…。ただただ尊敬、です。
観光産業に頼っているネパールでは、ポーターはけっこうメジャーな仕事らしい。
ポーターだけでなく、山に住むおばちゃん達も、素足やサンダルで重い荷物を持って山を登る。
たぶん、ネパールではあたりまえの光景。でも、私には衝撃的だった。
そして、改めて、超今さらだけど思った。私ってとてもぜいたくな世界に生きている。
バングラで生活していて、なんとなくこの国の暮らしにも馴染んできていたけれど、
フタを明ければ、任国外で羽を伸ばし、ダッカでは任地での1週間分の生活費を使って毎食、
美味しいものをたらふく食べている。
28年間日本という超ぜいたくな社会で生きてきて、手放せないものがある。
別にブランド物とか高級品には興味無いし、すごい金持ちになりたいとかも全然思わない。
最低限、自分がやりたいことができればいい。
だから自分がぜいたくな人間だとは思ってなかった。でも
たまには美味しいモノが食べたい。
たまにはキレイなお洋服が着たい。
たまにはライブに行きたい。
たまには海外旅行にも行きたい。
せまくてもキレイなお家に住みたい。
私は、こういう欲求を捨てられない。そう、しょせん私はマテリアルガールなのです。
日本人が幸せで、バングラやネパールの人が可哀そう、という風には思っていない。
彼らは彼らなりの生活をし、ある人は幸せである人は幸せではないかもしれない。
時には幸せで時には不幸かもしれない。日本にいてもでもどこにいても、それは同じことだ。
でも、マテリアルワールドを捨てられない自分。
戻るべき場所は日本(か、ある程度便利でエンターテイメントのある国)だと思ってる。
ネパールの山でも、バングラの村でもなく、日本でよかった、とどこかで思っている。
そんな自分が、ボランティアという肩書で何の技術も持たずバングラに来て、
何か役に立ちたい、なんて言うのはとてもおこがましいことじゃないか、とたまに思う。
そんなこと、自分に言う資格があるんだろうかって。
そしたら国際協力は偽善とでも言いたいのか?というと、別にそういうわけではなく…。
ただ、漠然とした疑問。
金とモノにあふれた日本社会と、そうでない国たち。
1日働いて150TK(約200円)を得るバングラの村人と、時給900円の日本人。
ネパールの山を登り降りするおばちゃんと、東京の地下鉄に揺られる私。
この絶対的な違いは何だろう?どこから来たんだろう?って。
歴史的な背景とか、国家間の経済的格差とか、説明するべき要因は山のようにあるし、
それを今さら知りたいわけではない。そういう理論的な話は専門書を読めば分かる。
でも、誰も教えてくれない。
なんで、私は日本で生まれて、彼らはバングラで、ネパールで生まれたのか?
神様のいたずらか。それともやっぱり人は生まれるべくして、ある社会に生まれてくるのか。
だったら私がぜいたく社会に生まれた意味は何なのか。
なんて、とても根源的な質問に行きあたってしまう。
でも、結局のところ意味なんてものは後付けでしかない。
私の信じるやり方で、何でもいいから社会の役に立つことがしたかった。
だから前の仕事をやめた。でも、協力隊に来たのは、それが答えだと思ったからじゃない。
もっと広い世界を知りたかった。世界で何が起きているのかを見たかった。
本当に助けを求めている人に、援助の手が届いているのか、それを自分の目で確めたかった。
2010年、駒ヶ根での訓練から始まり、バングラでの10ヶ月が過ぎていく。
変化の多かった年、と言うべきだけど、何かを変えてもいないし、変わってもいない。
変えたいのか、変えるべきなのか、それも良く分からない。
でも、私がこうやって一人でぐるぐる考えていることって、簡単に答えの出ないことばかりで、
その答えを待っていたら2年間の任期なんてすぐに終わってしまうってことに気付いた。
新年早々、ある人に言われたこと。
ある人「やりたいことをやったらいいんだよ」
私「やりたいことって言っても、分かりません。
ただ、いつも忙しくても私を村に連れて行ってくれる同僚たちとか、
そういうベンガル人に恩返しがしたい。」
ある人「じゃあ、それがあなたのやりたいことだよ」
バングラに来て、毎日いろんなものを見ながら、ますます分からなくなる。
安易な結論に逃げたくなる。でも、もっとぶつかっていかなくちゃ。
この先の自分の人生を不安に感じたり、答えの出ない問いに頭を悩ますのもいいけれど、
とりあえず、身近なベンガル人に喜んでもらえそうなことを、思いついたらやってみる。
空振りでもいい。バングラはきっとそんな私でも受け入れてくれるはず。
2011年の目標。ベンガル人に恩返し。そしてベンガル人と思い出づくり。
28歳初日の出
山がきれい
雲海もきれい
ぜんぶきれい