昭和36年9月 めりけん飛び歩き 5

山本峰雄

 

スミソニアン協会

 

戦後日本でもアメリカに対する関心が高まり、スミソニアン協会の名が知られるようになったが、この協会は戦後出来たものではなく、既に100年以上の長い歴史を持っている。

1829年6月27日に死んだ英国の鉱物学者で、化学者であったジェームス・スミソンは一度もアメリカを訪問したことの無かった人物であるが、新大陸の文化を向上する必要が大きい事を感じ、その遺産550000ドルをアメリカに寄贈してワシントンにスミソニアン協会を作り、人類の知識の増進と普及を図るように遺言した。

これを契機として、同じ目的の寄付を申し出る人が続出し、後には資金も4000000ドルを突破するに至った。始め、英国からの寄贈であるために、受入れについて慎重であったアメリカ政府は、この情勢を放置する事が出来なくなったが、1846年8月10日に至り、アメリカ議会は遂に正式に、スミソンの寄付金50831846ドルを受取り、スミソニアン協会を設立する法令を可決した。

その法定構成員はアメリカ合衆国の大統領、副大統領、最高裁裁判長ならびに数人の執行部部長より成る委員会であるが、協会の実際の運営は副大統領、最高裁裁判長、上下院各3名の代表および、議会によって選出される6人の市民よりなる評議員会によって行われる。市民のうち、2人はワシントン市のあるコロンビア特別区の住民でなければならない。

評議員によって互選される議長は事実上協会の運営を執行する代表者である。また、評議員会は書記長を選任する。1846年以来、現在まで7人の書記長が任命されたが、それらの全ては有名な学者である。

例えば初代書記長のジョセフ・ヘンリーは有名な物理学者で、電気の自己誘導の単位にその名をとられている程の電磁気学の大家であったし、次のスペンサー・F・ベアードは、有名な動物学者であった。また第3代の書記長として1887年から1906年までを務めたサミュエル・P・ラングレーは、言うまでも無くライト兄弟と並んで動力飛行の開拓に大きな功績のあった学者で、NASAの研究所の一つにその名をとったラングレー記念研究所がある。

次のチャールズ・D・ウォールコットは、古生物学者であると同時に地理学者でもあった。また第5代目のチャールズ・G・アボットは、大洋の輻射熱の研究で知られた天文学者である。現在の書記長であるレオナード・カーマイケル氏は、心理学および生理学の教授である。

協会は上述の知識の増進と普及のために、主として印刷物による活動を行っている他、図書館、博物館、美術館、天文台、動物園の運営や政府の科学技術関係官庁との協力、学術探検隊の派遣、外国との交流などにより、直接科学技術の発展に寄与し、その成果は高く評価されている。

我が国とこの協会との関係として、特に記憶に残っている事と言えば、関東大震災の時、震災で失われた図書を補充するためにスミソニアン協会は、東大を始め各大学に多量の図書を寄贈した事であろう。

現在、この協会が経営している機関は、アメリカ合衆国自然博物館、アメリカ人種学局、天文物理学観測所、アメリカ美術蒐集、フリアー記念美術回廊、アメリカ航空博物館、アメリカ動物園、パナマ運河地帯生物園、国際交換サービス、アメリカ美術回廊などで、何れも政府の予算により経営されている。

 

自然博物館と航空博物館

 

1月25日、20年振りで雪のワシントンを訪れた私は、翌日懐かしいスミソニアン協会を訪れた。東にワシントン記念碑が、その尖塔を雪空高く聳えさせ、西に国会議事堂が白く丸い屋根を浮上らせている。その間にスミソニアン公園が雪をかぶって広がっている。南側の協会本館は、煉瓦作りの古城を模した二階建てで、その正面と8カ所に搭が聳えている。

20年前と変わらぬ姿であるが、その色は赤い煉瓦の色でなく、既に黒くくすんでいる。本館の前のヘンリーの像から公園を挟んで、向う側に見える大建築は、自然博物館の博物学館である。また本館の南東には、1881年に完成した煉瓦建ての自然博物館の芸術および工業館があり、さらに本館の真後ろには、アメリカ航空博物館の鉄骨の一階建の小さな建物がある。

この建物は、第一次世界大戦当時の飛行機用格納庫であって、大戦末期の1917年に、仮の博物館として建設され今日に至ったものである。

航空機蒐集の開始以来、スミソニアン協会は、アメリカを主とした代表的航空機の蒐集に力を入れ、現在この博物館に収められている航空機は、各時代に世界的な性能を示し、また航空技術が革新をもたらしたものであり、この蒐集を見ると、アメリカ人の技術尊重の精神が滲み出ている。

しかし、勿論この大規模な蒐集も、必ずしも充分であったとは言えないようである。特に、第二次世界大戦中に於ける、急速な航空機の発達を代表するものを蒐集するのに困難を感じ、空軍司令官アーノルド将軍は、空軍に材料の蒐集を命じ、これによって多くの航空機が蒐集された。

また戦後の1946年には、この航空機蒐集を、正式にアメリカ航空博物館とする法律が制定されて、アメリカ航空の発達を記念し、歴史上興味があり、価値のある航空機材を陳列し、航空の発達についての科学的資料の保存を行い、航空史の教育材料を提供するという役割が定められた。

このような立派な航空博物館が、歴代の多くの人々に受継がれて育って行った跡を見るにつけて、私は我が国には、全くこのような精神が欠け、科学技術は露店商人のような連中に支配されているのではないかとさえ思うのであった。

終戦後間もなく航空研究所の諸施設が米軍の賠償物資となった時、その視察に来た将校が荷重試験台に取付けられた航研機の主翼を見て、これは博物館に寄贈したらどうかと言った。後にも先にも、我が国唯一の世界記録を作った飛行機の記念すべき主翼を保存する方法として当然なことであったが、その時の航研所長も、その他の残った人間達も、遂に米軍にこの翼が破壊されるまで、そのままにして傍観し、その部品をごみ溜めに捨て、この記念すべき遺産は、跡形も無くなった。

 

ライト兄弟の第1号機

 

戦前スミソニアン協会の博物館を訪れた私は、ライト兄弟がノースカロライナ州キティホークのキルデビルの砂丘で、1903年12月17日人類最初の動力飛行に成功した第1号機のかわりに、1908年フォートマイヤーで試験され、最初の軍用機として政府に買上げられたライト機が陳列されているのを見て不思議に思い、協会の出版物によって、その理由を調査した事がある。

これには、ラングレーとライトの相克と呼ばれる長い歴史があることが判った。記録によると、アボットが協会の書記長となって間もなく、オービル・ライトに会う機会が出来たとき、ライトはスミソニアン協会はライト兄弟に正当な待遇をしなかった事をなじり、なおスミソニアン協会は歴史の訂正を行うべきであると言った。

ライトの主張は、ある程度正当であったと言うことが出来る。即ち、ライト兄弟にスミソニアン協会から最初のラングレー記念金牌が贈られた時の演説が、主としてラングレーの功績を称える事に終始したこと、ライト兄弟のキティホークの最初の飛行機、またはその他の飛行機を協会に保存するための招請状に、懇切を欠く点があったこと、1914年、協会はライト兄弟と特許上の訴訟の相手であったグレン・カーチス氏と契約して、ラングレーの飛行機が飛行可能であることを実際の飛行によって証明し、ライトの価値を低めようとしたこと、また協会の博物館に飾られたラングレーの1903年の飛行機の説明板に「世界の歴史上継続した自由な飛行が可能な最初の人を乗せる飛行機」なる文字がある事など挙げることが出来る。

何れにしても、1903年ライトが人類最初の動力飛行の準備に寝食を忘れているとき、現職のスミソニアン協会書記長であり、物理学者として有名なサミュエル・P・ラングレーは、協会と、その背後にある政府と、軍の支援を得て、その飛行機の設計、製作、飛行に有利な態勢を整えつつあった。

これはライトの自転車屋として独力で飛行機を作り、これを民間用として使おうという街の発明家であったライト兄弟とは、比較にならない有利させあったに違いない。

ラングレーは、ポトマック河に浮べた屋根の上にカタパルトを設け、そこからこの飛行機を打出すこととして、ライトの最初の飛行に先立つ同年10月7日と、12月8日の2回にわたり、飛行機を発射したが、カタパルトの取扱い不備によって飛行出来ず、飛行機は水上に落ちて破壊した。そのうちに、ライト兄弟はワシントンから余り遠くないノースカロライナの砂丘で、人類最初の飛行に成功したのである。

前述のように、後にスミソニアン協会がラングレーの飛行機を修復して、飛ばせ、その飛行機が「継続して自由な飛行」が可能であったことを証明し、カタパルトの取扱いに不備な点が無かったならば、ライト兄弟の飛行に先だったラングレーの成功があったかも知れないという事を示そうとしたのは、当然であったと言える。なぜならば、ラングレーの飛行機は、協会の資金で協会の工場で作られ、ラングレー自身が協会の書記長であったからである。

このような理由で、ライト兄弟の第1号機、俗にキティホーク号は遂にロンドンのサウス・ケンジントンの博物館に貸与され、スミソニアン協会の航空機蒐集には入っていなかったのである。

しかし、時は流れて、ウィルバー・ライトは既に1912年に死亡し、残ったオービル・ライトは戦後1948年にウィルバーの後を追った。そしてラングレー対ライトの相克は、両者の史実を究明する努力によって解決しつつあった。

斯くしてオービルの遺族とその代理人は、キティホーク号をスミソニアン協会に寄託することとなり、ライト兄弟の最初の動力飛行の第45回の記念日に当る1948年12月17日、盛大なる式典がスミソニアン協会で行われた。

私は、自然博物館の芸術、及び工業館の北ホールの天井から吊るされたキティホーク号の下に立ち、これこそ長年見たいと思っていた飛行機だったと、心の中でつぶやいた。私は、いつかこの飛行機を見られると思っていたのである。前回のアメリカ旅行の時、参加した第5回応用力学国際会議の行われたマサチューセッツ工科大学の、当時新設された変圧風洞の通風式に、オービル・ライトが出席してスイッチを入れる筈であったが、定刻近くになってライトの到着を待っていた我々に、オービルが病気で出られないという電報が来て、がっかりした事も思い出された。

機体の下には、機体の構造や、操縦の仕方などを書いた説明版が数枚置かれてある。しばらく私は、この説明版を読返して、今更ライトの苦心が判ったのであった。遂にキティホーク号はそのところを得たのであった。

 

航空博物館

 

キティホーク号のすぐ後には、1927年5月20日から21日の間に、ニューヨークからパリまでの世界最初の無着陸大西洋横断飛行に成功したリンドバーグのスピリット・オブ・セントルイス号が吊るされている。24年振りに見るこの飛行機は、私に東京で見た「翼よ、あれが巴里の灯だ」という映画を思い起させた。

以上の2台の飛行機と、1930年のナショナル・エア・レースに優勝して、ロサンゼルスとシカゴの間を、9時間9分4秒の記録を作ったり、翌1931年には、8日15時間51分で世界一周の新記録を作ったワイリー・ポストのウィニー・メイ号は同じホールの中にある。

航空博物館の所有する約3500の資料の大部分は協会本館の後方にある航空館の中に収められている。

芸術および、工芸館を出て、雪の中に開かれた道を辿って東側に回ると、屋外に大きなロケットが陳列してある。米空軍の大陸間弾道ミサイルで、コンベア社製であり、各種の宇宙航用ブースターとして使用されているアトラスや、米陸軍の中距離弾道ミサイルがあり、アメリカの宇宙船のブースターとして使用されているジュピターなどがある。

ここを回って、コンスティテューション大通りに突き当る右側に、航空館がある。航空館の一番奥には世界最初の超音速機として知られるベルX-1型機が、オレンジ色に光った機体を天井に向って傾斜して置かれ、その下には、この飛行機のエンジンであるリアクションモーター社製の2700㎏の推力を出すロケットモーターが置いてあった。

X-1型友人ロケット機は、1948年1556㎞/hの速度を出して、1950年空軍参謀長ヴァンデンバーグ将軍から、スミソニアン協会に寄贈されたものである。当時、この飛行機の飛行データを取ったテレメータリングの計器も寄贈されている。

航空館は、アメリカの航空史を残すことなく実物で展示するには、余りに狭いためか、写真と図による説明が相当多いが、我々が記憶する主な航空機は、殆んどこの展示の中に取入れられている。

1927年11月、12950mの高度に昇った米陸軍H.C.グレー大尉の気球の吊籠と計器や、1935年11月11日、米陸軍航空隊のA.W.スティーヴンス大尉と、O.A.アンダソン大尉が、22000mの世界高度記録を作ったエクスプローラーⅡ型気球のゴンドラなどから、1894年に作られたオットー・リリエンタールのグライダー、1919年最初の大西洋横断飛行に成功したNC-4型飛行艇の資料など、アメリカおよび世界の航空の発達を物語る資料は、この航空館と、一部は芸術および工芸館の中に展示されている。

私は、この日の午後の全部を、この航空博物館を回り、余った時間で前回と同様に博物館を見た。アメリカ各地のインディアンの生活の人形展に色々の意味の驚きと好奇心を躍らせ、持主に大きな不幸をもたらした「希望のダイヤ」のあやしい光や、各種の宝石の輝きに自然の偉大さを見た。

スミソニアン協会の見学は、半日の短い日程では到底充分でないのである。

見学を終え外に出ると、既に暮れるに早い雪空に闇の色がかかり、ワシントン記念碑の壁面のみがボンヤリと中空に輝いていた(完)