昭和36年8月 めりけん飛び歩き 4

山本峰雄

 

アエロナベス・デ・メヒコのジェット機事故

 

デトロイトの国際会議の期間中、この地方には珍しい暖かい冬に恵まれ、街や野原に残っている雪も、日毎に少なくなって行った。しかしニューヨーク付近はほとんど連日雪が降り、ハドソン河には、氷が岸近くの水面に張り、ニュージャージーの対岸も白一色の冬景色だった。昨年末に起ったニューヨーク空港付近の旅客機衝突事故も、このような雪模様の天候下に起っていた。

1月19日、私は11時55分発のアメリカン・エアラインの290便で、ニューヨークからボストンに飛ぶことに決めていたが、その日の午前中と午後に用事が出来たので、夕方7時過ぎの便に変更した。ところがSAEの本部を訪れて国際会議のお礼を述べたり、学会の設備を見たりして戸外に出ると、表は吹雪になっていた。

そして、吹雪は徐々にひどくなり、午後4時飛行場に電話をかけて、私の便の出発を確かめると、多分駄目だろうということだった。午後5時、さらに電話で問合わせると、全ての飛行は取り消されたという返事だった。

そこで、我々は予定をあきらめ、夕食のため外に出た。吹雪の中ではタクシーは無く、バスに乗って泊っているホテルの近所のレストランにたどり着き、午後9時、ホテルに帰り着いた。するとボーイが、先刻メキシコの旅客機が、ニューヨークの国際空港で墜落し、旅客80名が死亡したというニュースを語った。私はよくこの吹雪の中を飛んだものだと感心すると同時に、何だか助かったという気持ちになった。部屋に帰りテレビを見ると、この事故のニュースが入って来た。ボーイの話のように、多くの死者は無かったようだが、吹雪の空港の外でクラッシュして燃える機体の消火作業などにより、全くひどい事故であることがわかった。

この晩、8時15分、メキシコの航空輸送会社アエロナベス・デ・メヒコが、イースタン・エアラインズから購入したダグラスDC-8型ジェット旅客機は、雲高300フィート(約91m)、視界1/4マイルという悪条件のもとに、しかもアイドルワイルド国際空港の比較的短い、長さ6500フィート(約1980m)の7号滑走路から離陸、滑走を始めた。この頃、ニューヨーク市内では、積雪12インチ(30cm)に達し、交通は途絶しようとしていた。

滑走路の上は、除雪作業を行ったとしても、この飛行機の出発時には、厚さ1インチから2インチの融雪が残っていたと思われる。

操縦席には、17年間飛行機に乗り、この3年間はジェット機とターボプロップの経験を積み、飛行時間15000時間というベテランの機長ゴンザレス氏と、1等飛行士、2等飛行士およびパーサーが乗り、操縦席の後方のジャンプシートには、イースタン・エアラインズから、このジェット機の操縦を教えに派遣されていたポー氏の5人が乗っていた。

また、操縦席の後方の1等客室とその後方の2等客室には、米国人を主とした98人の旅客、スチュワード1人、3人のスチュワーデスが乗っていた。

 

なぜ吹雪のなかを飛行したか

 

アイドルワイルド空港には、7号滑走路に対し、ターミナルビルを隔てて、これと平行した長さ8200フィート(約2500m)の滑走路があるが、なぜこれを使わなかったかは明らかではない。また他の航空会社が飛行を取りやめている時、どうしてメキシコの航空会社だけが出発したのかも、明らかではない。

しかし私は、1週間ばかりのちメキシコへ、他の会社の飛行機で飛んだ時、その謎が解けたように思われた。

それは、アメリカ大陸を飛行機で南下し、アトランタ市に到着しない前に雪は無くなり、それから先は暖かい南の陽光を見ることが出来たからである。ジェット機なら、ニューヨークからアトランタ付近まで、1時間半は掛からないから、ニューヨークの吹雪を逃げれば、あとは晴れた空が待っているという気持ちが起ったのかもしれない。

何れにしても、DC-8型は106人の旅客、乗員を乗せ、吹雪の荒れ狂う闇を衝き、雪を蹴散らして滑走を始めたのである。これから先は、どんな事が起ったかは判らない。

助かった1等乗客は、事故が起こる前に、飛行機は20フィート(約6m)地面から上っていて、それから急に落下したと言っているし、また後部の2等旅客の1人は、飛行機は離陸していなかったと言っている。また、この飛行機の速度が、滑走路の終端で、この飛行機のV2速度である175マイル(282㎞/h)の速度に達したかどうかも明らかでない。

また他の乗客は、事故が起きる前に操縦士は確かにブレーキをかけ、逆推力装置を働かしたと言っている。もしこれが真実なら、操縦士は何らかの原因で離陸出来ないことを知り、停止しようとした事になる。

 

わずか1インチの雪も離陸は不可能

 

とにかく、巨大な4発旅客機は、旅客を乗せたまま滑走路の端を突破し、右に逸れて滑走路の端から200フィート(約60m)のところにあるジェット機騒音防止の柵を突破し、飛行場の垣に沿って走るロッカウェー・ブールバードを横切って、その向うにある沼沢地に飛び込み、ここで胴体は操縦室と客室との境で、真っ二つに切断されたのである。

操縦席はその瞬間に爆発し、メキシコの4人の従業員は即死し、ジャンプシートにいたポー氏は、瀕死の重傷を負ったのである。

後部の胴体のスチュワード、スチュワーデスは、客に助けられて非常扉を開け、吹雪の沼沢地に飛び降りたり、前部に口をあけた開口部から飛び降りた。

火は既にこの時、胴体の下の沼沢地に燃え始めていたらしい。名状し難い混乱の中で、102人は沼沢の中に飛び降り終った瞬間、ガソリンに引火して爆発し、その残骸は暗い夜空に吹き上がり、やがてバラバラと降って来た。殆んどの人は僅かの傷だけで助かった。

しかし犠牲者はこれだけでなく、ちょうどロッカウェー・ブールバードを自動車で通りかかった婦人がこのジェットに引っ掛けられ、車体もろとも沼沢地に入って、ドアが開かなくなった。彼女はドライブの疲れを休めるため、途中でコーヒーを一杯飲んだために、ジェット機と衝突したのである。

この事故は米国民間航空局とメキシコの民間航空局とで、共同調査を行っていたが、その結論はまだ聞いていない。しかし、この事故の約10日前、デトロイトで行われたSAEの国際会議で、滑走路の除雪問題や、滑走路に雪や水がある場合のジェット旅客機の離着陸の問題の論文が提出された。その中でも米国のNASAのラングレー記念研究所で行った実験によれば、4発ジェット機の場合、滑走路に溜まった僅か1インチの雪も離陸を危険にし、1.5インチ以上になると、離陸が不可能になるということであった。この事故調査の結果は、このような意味で、興味を持たれる。

 

プリンストン大学

 

久しぶりに、ニューヨークのペンシルバニア鉄道の駅にやって来た。相変わらず、プラットフォームの入口は鉄の門が閉まっていて、定刻15分前に金モールで飾った丸帽の駅員がやって来て、列車の行先を標示した板をゲートに掲げ、門を開けた。

プリンストン・ジャンクションまでの55分の旅は、どんよりと曇った雪空に、ところどころ沼沢が残り、その中に殺風景な工場の建物が並び、目を楽しませるものは何も無かった。

プリンストン・ジャンクションに着いた私は、かねての約束通り、プリンストン大学ジェームス・フォレスタル研究センター航空部門のS氏に電話し、迎えを頼んだ。駅舎の中は火の気も無く、雪の上を通った冷たい風が入って来て、寒駅といった感じである。駅前には、プリンストン氏と連絡する小さな古い2両連結の電車があった。

やがて、S氏の車が来たので、我々2人はその車に乗り、プリンストンに向った。途中、プリンストン大学の構内(と言っても、日本のように柵や垣根で囲まれていないので、どこが構内かよくわからない)を一巡した。

さすがに、200年以上の歴史を持ち、プレスビテリアン派の宗教の学校として発足した面影は、至る所に残っている。

教授たちの公邸、校舎、競技場などを見たのち、ナッサウ・インという古めかしいレストランに案内された。白い服を着た、品の良い黒人のボーイが、礼儀正しく、ユーモアを忘れないで応対した。

我々の座った椅子やテーブルは、植民地時代を思わせる黒褐色の木製で、その上に、ナイフで無数に姓名が彫り込んであった。私は昔イギリスのイーストン校を訪ねた時、その礼拝堂の扉や、壁板に、学生が卒業記念に彫り残した無数の名前を見、またその中に多くの英国の大臣や王室の一族の名前を発見し、旧き、よき時代を偲んだことがある。

今、プリンストンの古い伝統を誇るナッサウ・インのテーブルに向い、青春の想い出に学生が彫ったナイフの跡を眺めながら食事をする不思議な巡り合わせを思ったりした。

 

ジェームス・フォレスタル研究センター

 

食後、丘の林の中や、湖のほとりをドライブした。今は白い雪景色であったが、春や夏は美しい景色だろうと想像された。

それから1号ハイウェイに出て、元国防長官で、プリンストン大学の卒業生であるジェームス・フォレスタルを記念する研究センターに向った。この研究センターは、化学、応用原子核科学、数学、航空学などの研究部門があり、航空部門では、VTOL、高速空気力学、飛行力学およびジェット推進などの研究が行われている。

この研究センターのうち、最も大きな設備を持ち、最も大きな研究費をかけているものは、原子核科学である。1号ハイウェイから見ると、雪空の下に鈍い銀色に光っている半球形ドームがあるが、これが研究センターの最大の設備で、世界的に有名なサイクロトロン装置である。航空部門の持っている飛行場は、雪に覆われて、その境もわからないが、1台の除雪車が出て、滑走路の除雪を行っていた。自動車を止めて、暫くその作業を見た後、サイクロトロンの傍を通り、航空部門の研究所に到着した。

 

エア・カー(GEM)

 

ヘリコプターの回転翼の空気力学と、その強度の研究で有名なN教授は、ニューヨークへ出かけて不在だったが、我々は長さ700フィート(約213m)の建物の中を、ヘリコプターの模型を飛ばせ、それと一緒に走る台車で、飛行状態のコントロールや、データの測定をする装置や、電子計算器室、早変わり機の模型などを見た後、格納庫に入り、米陸軍の研究費で研究を進めているエア・カー、研究用のバートル製のヘリコプター、軽飛行機などの中を回った。

エア・カーは、米国では地面の影響を受けて浮き上がるという意味でGround Effect Machineと呼び、これを略してGEMと呼んでいる。

SAEの会議には、デトロイト大学や、ウェーン州立大学などのGEMも出品されていた。そして、デトロイト大学のものは、D-GEMと呼ばれていた。しかし、これらのGEMのうち、プリンストン大学のものが、最も実用段階に近いようであった。

P-GEMは2台あり、最初の1台は、日本のヤマハのエンジンを付けた小型のもので、X-4型と呼ばれている。これは直径9フィート(約2.7m)の円盤型のもので出力15PSである。これに対して、X-3B型は、直径20フィート(約6.1m)の大型GEMで、出力180PSの空気冷エンジンを付けている。

プリンストン大学では、X-3B型の前に、X-3型という48馬力エンジンを装置したものを作ったが、そのエンジンを換装したものが、X-3B型である。浮上プロペラの外に5PSエンジンで駆動する尾部回転翼を持っているX-3B型は、方向操縦と、安定が改善されている。

これらのGEMを見た後、別室に用意された16ミリ・カラーフィルムの映写を見せてもらった。初めの予定では、私をX-3B型に乗せるつもりだったが、雪のため飛行場が使えないので、やむを得ず映画を見てもらう事になったということであった。

 

風洞実験室を見る

 

映画の中で、X-3B型は、丘、湖、川などの上を自由に飛びまわり、或る時は操縦士が手を離しても飛行したりしていた。浮上して、フラフラとまわったり、風で横這いしたりする今までのGEMとは、格段の差があった。

我々は、それから長い渡り廊下に出て、その両側の実験室を見て回った。これらの実験室には、主として風洞が装備されていた。

学生の初歩の実験をやるような小型の亜音速風洞や、煙風洞から、マッハ20のハイパーソニックの速度を出す風洞など、多くの風洞があり、またハイパーソニック風洞のための圧縮ガス供給ボンベなどがあった。

半日の興味ある見学が終った後、再びP氏の自動車で、プリンストン・ジャンクション駅に向かった。米国人の車に乗ると、必ず日本のカメラや、トランジスター・ラジオを褒められるのが常で、P氏も先頃日本のあるカメラを買ったが、そのレンズの良いのに驚いたという事であった。

不幸にして、私はP氏のカメラの名を知らなかったが、帰国後さっそく調べたところ、そのカメラはカメラ通の使う写真機であることを知り、恥じ入った次第である。

夕方の汽車は、通勤客で混むことは日本と同じだった。雪のニュージャージー州からニューヨークに入って混雑はひどくなり、タクシーも見つからないので、私達は今度の旅行でただ1回だけの地下鉄に乗った。そして遥かな東京のラッシュアワーを思い出した。