昭和36年5月 めりけん飛び歩き 1

 

山本峰雄

 

ジェット機でハワイへ

 

去年の暮から正月にかけての忙しさは格別であった。日本独特の外貨割当申請だとか、渡航手続きに飛びまわると同時に、自動推進工学国際会議に提出する論文と、講演用スライドの用意、見学先やホテルとの内合せの手紙などですっかりくたびれたあげく、正月早々3日発の日航DC-8ジェット旅客機「箱根」号に乗込んで、やっと雑用から解放された。

これより前、1ヵ月半の11月半ばに、私はDC-8の訓練飛行に同乗して、3時間15分の体験飛行を行っているので、ジェット機は初めてではなく、ことにDC-8については、ある程度の知識と親しみを持っていた。

午前10時30分発の予定が、重量調整のため1度ランプに引返したため、11時12分の離陸となったが、離陸後は、ジェット機特有のすばらしい上昇力で、たちまち10000mの成層圏と対流圏の境付近まで上昇し、銚子を下に見たのが陸のランドマークの最後で、あとは海の碧と、成層圏の大空の紫がかった紺青の間にただよい、やがて小波の如く白く群がる雲海をはるかに下に見て、振動と騒音の少ない静かな飛行が続いた。そしてわれわれのジェット機は、すでに今年の冬からとくに強くなっているジェット気流に乗って、対地速度約1000㎞/hという高速でハワイに向っていた。

サービスがよいので有名な日航のパーサーとスチュワーデスたちは、離陸上昇を終って、客が座席ベルトを外すとともに活躍を始めた。1等席では、ハッピコートが配られ、客もサービス係も上衣を脱いではっぴ姿になって、昼食を楽しんだ。カクテルが客の望みで運ばれ、シャンパンはちょうど窓外を見ているうちに注がれるという有様である。豪華な食事を終って、連日の疲れでぐっすりと眠って目をさますと、ジェット機の快速は、太陽をはるかに後方に残して、あたりをうす暗くしていた。

そしてやがて何回目かのサービスが終った後には、陽は太平洋上12000mの高空にとっぷり暮れて、飛行機の左舷の雲海の一点が薄黄褐色に染まってきた。窓をすかして黒い夜空に瞳をこらすと、右手になつかしいオリオン星座が巨人、狩人オリオンの姿を美しく描き出し、その左下には大犬座が輝いて、そのシリウス星のはるか下の雲海の一点に月が昇ろうとしているのである。

しばし眠気を忘れて、成層圏に昇る月を眺めていると、キャビンのマイクから流れる放送が夢幻の世界から現実の世界に私を引き戻した。

「ハワイ時間21時42分、現在ホノルルは快晴、地上気温20.50℃」というニュースに人々は真冬の寒い東京から日本の初夏の気候のホノルルにまもなく着陸するという喜びを深く味わい、機内は一瞬にぎやかになった。

それから50分もたたないうちに、我々は夜の太平洋上に浮かぶ楽園オアフ島の灯を前方に認めた。飛行機は、やがてワイキキの浜とダイアモンドヘッドを遥か右前方に見て着陸態勢に入り、現地時間で1月2日の22時半にアメリカの土地に初めて着陸した。東京から3940マイル(6340㎞)を強い冬のジェット気流を利用して、6時間17分で飛んだのである。

初めて見るホノルルの飛行場のターミナルビルには、ホノルルの港と同じ形の塔がそびえ、その側面にはうす明るくAlohaという文字が浮出し、歓迎と歓送の意をあらわして、ここを発着する旅客機の乗客を見守っている。前日ハワイには珍しい強い雨が降ったため、ホノルルの街並に植えられた椰子の葉はところどころ折れて、その余波の風は強く、葉ずれの音が、遥かの旅を行く心に沁みるような夜を、プルメリアのレイをかけてワイキキのホテルに向った。

思えば22年前に、私はやはり米国の国際会議に出席するため、当時の日本の優秀貨客船であった竜田丸で10日間の航海の後に、ホノルル港のアロハ塔と有名なロイヤル・ハワイアンバンドとハワイの人レイに迎えられて上陸したのである。

22年の歳月の後に、我々の速度は実に38倍に躍進し、我々が鉄道の特急で東京から大阪に着かないうちにハワイに着くという、驚くべき現状となったのである。航空輸送が大西洋でジェット化され始めたのは、一昨年の10月であるが、今や太平洋、大西洋の遠距離航空路のみならず、米国、ヨーロッパなどの中距離のジェット化も進行している状態で、世界の情勢は一変しつつあるといってよい。これは単に飛行機自体の性能だけではなく、出入国の手続、税関の取扱いなど、全てにわたってジェット機とともに変化して来ている。

昔我々が、サンフランシスコで入国手続きを行ったときには、大きな紙にあらゆることを書き入れ、健康検査も極めてやかましかったが、現在はこれらの手続きは、格段に簡単で、また全ての係官の態度は友好的である。飛行機が人々の世界観を変えつつあるといってよいと思われる。

その夜、ワイキキのホテルの一室で私は波の音と椰子の葉ずれの音に目をさまし、ふと名古屋付近の海岸に泊まっているのではないかと錯覚した程であった。それ程の距離感と疲労感しか無かったのかもしれない。

 

オアフ島

 

「太平洋の楽園」あるいは「世界の遊園地」などと、さまざまな言葉でハワイ諸島の美しさが表現されているが、その中心は首都ホノルルと真珠湾、ワイキキの浜などで有名なオアフ島である。

オアフ島に遊ぶ者は、四季絶えない色彩と香りの豊かな亜熱帯植物の花に感嘆久しくするのが常であり、私も前回は夏にやって来て、ゴールデンシャワー、夜花を咲かせるサボテン、ハイビスカス、ブーゲンビリア、とけい草、ポイシアナ・レジア、アラスンダ、その他の数えきれない花々の饗宴を楽しんだ。冬に当る今回の旅行では、花はずっと少なかったが、まだハワイ州の花であるハイビスカスは、家々のまわりを飾り「プリンス・タカアツ」などという新しい種類を加えて目を楽しませてくれた他、クリスマス・フラワーやエントリアムの真紅と各種の蘭、プルメリアなどの花が我々を迎えてくれた。

ハワイの花を訪ねるのも大きな楽しみの一つであるが、ホノルルに来た旅人が、必ず一度は訪ねるのがヌアヌ・パリ(Nuuanu Pali)である。パリはハワイ語で断崖を意味している。オアフ島にはその北東の海岸線に沿ってコウラウ山脈が走っている。ヌアヌ・パリは前者の南部、ちょうど山並が低く谷に向って落ちようとするところにある。

ハワイ諸島付近で強い北東貿易風は、この山脈とほぼ直角に吹いて、海面上約390mのヌアヌ・パリの切立った断崖に沿って海の水分を含んだ風が、猛烈な勢いの上昇気流となるが、風はその上に左右の山で絞られるので、さらに強くなる。世界第三の強風地といわれているヌアヌ・パリは、22年前に来たときと大分周囲が変って来て、その神秘さが失われてきたが、風の強いのは相変わらずであった。

断崖の端から顔を出すと、息の詰まりそうな上昇風にたたきつけられ、工事中の道路の端を横切って、断崖の壁にはめこまれたヌアヌ・パリの戦の戦死者の追悼文をまた読み返そうと風の中に入ると、ほとんど身体を吹き飛ばされてしまいそうになる。

追悼文には「1795年この島に侵入したカメハメハ一世が、オアフ島の王カラニクプレの軍隊をパリに追込み、断崖から追落してカメハメハ王朝の礎を築いたヌアヌの戦を記念し、1907年ハワイの娘たちによって建立されたものである」と書かれている。

ここの風と上昇気流がいかに激しいものであるかについては、幾多のアメリカ人の紀行文に書かれているが、これらを引用するのは止めて、ここにはこれに関連するハワイの神話を紹介しておこう。

 

ハワイの神話

 

ハワイ諸島の一つカウアイ島で、投槍、拳闘、跳躍、飛行などの名手として知られたナマカは、仕えるべき主人を捜すために遍歴の旅に出たが、まずオアフ島に渡って、ここヌアヌ・パリで拳闘の名手パクアヌイに会い、パリでその技を競う事となった。

しかし試合してみると、パクアヌイは、目にも止らぬ速さでグルグルと自分のまわりをまわるナマカを扱いかねて怒り出し、遂に殺意を抱いた。しかも「ナマカは魚の如くに捉えにくくてパクアヌイの額や鼻を打ち、ハウの木の上にかかる虹の如くに、そのまわりをまわった」そこで勝手を知ったパクアヌイは、ナマカを断崖の端におびき寄せて、彼に渾身の一蹴をくれたところ、ナマカは脆くも断崖から転落した。

パクアヌイと観衆はナマカが断崖から落ちて、木っ端微塵になるものと固唾を飲んだが、驚いたことに、ナマカはその両腕を翼のように左右に広げて空中に浮かび、イオ鳥の如くにパリを離れて森の中に消え去った。

ヌアヌ・パリの上昇気流は、この神話のように、人を浮かばせる強さはたしかにある。そしてこの上昇気流のために湿気を帯びた空気は、上空で冷されて、コウラウ山脈の背後、ホノルルの街の上空に雲を生じ、やがて午後になると、この雲からホノルル名物の「降れども濡らさぬ雨」が降り、虹が中天にかかる。

1929年12月17日、米国人のウィリアム・コックは愛用のグライダー「ナイトホーク」号をかつてホノルルから離陸し、コウラウ山脈の上昇気流の中に浮かび、翌18日までに21時間55分の飛行を続けて、航続時間の世界記録を作った。そしてこの報は、クリスマスイブにドイツにも達して、第一次世界大戦後グライダーの世界一のリーダーとなって鼻の高かったドイツ人を驚かせた。

1938年の夏、ここを訪れた私は、風の強いときに備えて、山側の岩肌に取付けられた歩行者用の鎖を見て驚いたが、風は、ここでは珍しいくらい静かで、物足りなく思って帰ったものである。今日は幸いにして相当強い風で、ヌアヌ・パリの真価の一端に触れた感じであった。

我々は新しく作られた立派な自動車道路を通ってヌアヌ・パリを二度にわたって訪れ、三度目にはこれも新しい自動車道路にあるウィルソン・トンネルを抜けてカネオヘに出てヌアヌ・パリを遥かに見上げる自動車道路を走った。22年前に比べるとこの附近はすっかり開けて、カネオヘには新しいスーパーマーケットが出来、ヌアヌ・パリの下、かつては鬱蒼たる森と、タロ芋の畑などがあった所も開けて、ゴルフ場が完成し、自動車の交通量も多くなっていた。

しかし奇妙なことに、ヌアヌ・パリには昔と全く同じく、ボロ果物などを売るトラックが観光客を相手に止まっていて、これも昔と同じように、秤を荷台に取付けて客を待っていた。そこで私たちも昔と同じく、この車からアップル・バナナと称する小粒でりんごの味と香りのするバナナを求めたのである。

新しいオアフ島の名物の一つは、パンチボールの旧火山噴火口に設けられた太平洋国立記念墓地である。ここには白い祭壇と緑の墓地と赤い献花が、碧い空の下に静まりかえって、第二次大戦の犠牲者を弔っている。

我々はこの墓地の一端にある展望台に車を入れて、ホノルル港のアロハ塔や官庁街から、その向うに見えるサンド・アイランド、そしてさらに右に遥かに霞むホノルル国際空港を望んで、その眺望を楽しんだ。見上げる空には、イオ鳥のかわりにジェット機が飛び、ホノルル港の岸壁には、ワイキキの波乗り板を圧して巨船が横付けされている。

 

真珠湾に残る戦いの跡

 

私たちは、さらにかつての戦いの跡、真珠湾に車をまわし、湾を見渡せる坂道に車をとめた。この辺りは我々の背よりも大きなクリスマスフラワーがあやしいまでの虹を陽光に輝かし、ハイビスカスの花がハワイの誇りを語っている。あの時の日本軍の爆撃で沈められた「アリゾナ」と「ウタ」の両艦の残骸は、説明されれば微かに認められる程に、水面にその一部を現している。そして「アリゾナ」は今でもこの艦と運命を共にした1702名の戦死者の遺体をとどめ、「ウタ」も58の遺体を残している。そして「アリゾナ」は記念として残すために、岸から渡り道を作る計画であるということである。

同行の日系市民H氏は、ハワイの有力者として開戦と同時にサンド・アイランドに強制収容され、それから米本国の抑留所を転々として移動した苦い経験の持主であり、その子息は米空軍のパイロットである。彼はパンチボールとパール・シティの見晴台で、しみじみと当時の模様を私に語ってくれた。

しかしここハワイに来て、戦争は全ての日米間の憎しみを解消したようにさえ見えるのである。22年前には、ここの甘藷畑やパイナップル畑に働くどす黒く日焼けして、無数の皺を顔に刻んだ日本人移民は殆んど姿を消し、代わりに二世や三世は楽しそうに車をドライブし、相当な家に住み、その生活と地位が高くなった。

 

カリフォルニア州

 

日航の宮嶋号はホノルルを真夜中に発って、大洋の東で弱くなるジェット気流の影響を受けてか、ホノルルからロサンゼルスまでの3850㎞を約5時間かかって飛び、朝の7時12分ロサンゼルスに着いた。

昔汽車でニューヨークから数日を費やして退屈し、いよいよカリフォルニアに着く前になると車掌がやって来て、身振りも大げさに「オー・サニー・カリフォルニア」と言ったことを覚えている。それほど南カリフォルニアの気候は人々の憧れである。そのロサンゼルスは、私にとって4度目の訪問である。12月から1月にかけての雨季と言われる時期に相当するために、ホノルルに比べると温度は低いが、ちょうど春の気候でしのぎよく、景色は明るくて空は碧い。

22年前に、私はサンフランシスコに上陸した後、今もある「デイライト」という豪華な汽車でロスまで約650㎞の鉄路を8時間かかったものであった。太陽はさんさんとカリフォルニアの野を照らし、全ての草は褐色に枯れている中に、家々の芝生がスプリンクラーで目も覚める緑に輝き、灌漑された畑と楡の林が、草原と対照的な緑を点綴していた。

その中を深くベネチアン・ブラインドを下ろして日光を遮り、紫煙と酒の香を乗せたルーンジカーとバー付の食堂車をつけた豪華列車が走った。それから2ヶ月後、私はさらにロスからサンフランシスコの近郊マーチネスまで海岸山脈とシェラネバダ山脈との間に横たわるサン・ホーキン渓谷を通る鉄道に身を託して、砂漠の灰褐色とシェラネバダの水で灌漑された緑の果樹園と畑の対照に目を見張った。

しかし今は飛行機の翼の下にジェット機ならば1時間以内でこのカリフォルニアの二つの都市を結ぶ事が出来ているのである。

カリフォルニア州の南部サンフランシスコからロサンゼルスまでが、まだ米国領にならない前に、スペインのフランシスコ派の僧侶などはメキシコからインディアンの住むカリフォルニアに入り、幾多の困難と悪条件を克服してキリスト教の伝導につとめ、サンディエゴからサンフランシスコの間に21のミッションを建設していった。カリフォルニアの海岸線に大体沿っているこの道を、スペイン語でエル・カミノ・レアル即ちスペイン王の大道(ハイウェイ)と呼んでいた。

私は昔の旅行のときから、いつかはこの大道に沿うミッションを訪ねて、黒い頭巾と僧衣をまとい、十字架のしるしを長く前に吊るしたフランシスコ派の僧の生活を見たいと思っていたが、今回の旅行も忙しかったために、サンディエゴとロスのミッションを訪ねることが出来ただけに終った。

今は大体このエル・カミノ・レアルに沿って、メキシコ国境からサンフランシスコまで近代的な自動車道路、即ち101号ハイウェイが走り、北はカナダの国境まで伸びている。サンディエゴのコンベアの飛行機工場とミサイル工場は、この101号ハイウェイにのぞんでいる。そしてカリフォルニアにある米国の主要な航空機工場は、この道で事実上連結されている。

 

航空機工場の集結地

 

北からボーイングのシアトル工場、ロサンゼルス近郊のダグラス、飛行機会社のサンタ・モニカロング、ビーチ、エル・セグンドの各工場、ロッキードのバーバンク工場の外、ノースアメリカン、ノースロップ、ライアンなどの飛行機会社とヒラー、ロータークラフト、ヒュージなどのヘリコプター会社がある。このうちの大部分は四季雨が少なく天候がよいロサンゼルスとサンディエゴに集まっている。

この地方では雨が無いので、必要とあれば戦時中と同じく戸外で飛行機の組立をやっており、整備作業を行うことが出来る。また研究設備も精密な機械以外は屋外に置くことが出来る。ダグラスでもコンベアでも、屋外の地面にコンクリートの床だけを打ち、これに研究設備を固定するボルトがはまる穴があって、多数の実験装置が外に置いてある。

また天気と気候がよいので、照明や暖房の費用は著しく節約でき、技術者も生活費のかからない、そして快適な気候の南カリフォルニアに集まる。このようにしてカリフォルニア州に航空機工業が集まったのである。戦時中は爆撃を避けるため、一時中部に工場を建てたが、戦後は再びミサイル工場などを建てている。

戦前からロスの人口と地域の膨張は急速度であって、市街は活気に満ちていて、やがては大都市に発展することが予想されていたが、それから20年余の今日では、ロスアンゼルス自体で200万の大都市となり、その周辺地区の人口を入れると600万を突破している。そして交通機関の整備される前に市域が拡大して、主として自動車交通に頼っている。