昭和16年6月 戦時下米国航空工業の相貌

航空研究所所員 工学士

山本峰雄

1        米国の焦燥

数年前までは世界第一の航空工業と研究機関を擁し、世界の航空界に君臨していた米国も、ドイツの台頭によって一挙に王座から転落を余儀なくされて終った。

嘗てはドイツに大量生産技術を輸出し、機材を売り、ドイツのミッションを迎えて我世の春を唄ったのであるが、今やその地位は逆になって米国人がドイツに渡ってその大量生産技術を習得し、その機材を購入しなければならない始末となった。

一方に於て米国はツェッペリン飛行船にヘリウムを供給する事を拒絶し、ドイツの大西洋横断定期飛行の米国着陸を拒んだ。

然も根強いドイツの触手は大戦後からナチス政権樹立までの間にユンカース飛行機及発動機会社とルフトハンザの南米に扶植した勢力を基礎として、南米航空路の拡張を行い、1939年にはコンドルシンジケートを始め、ドイツ勢力化の航空路の路線は膝下の米国の航空路の1.3倍の路線延長を算するに至ったのである。1938年にはパナマ運河に対するドイツのスパイ事件なるものが勃発して米国の上下を騒がした。南太平洋横断のドイツの航空路は強化され、これにイタリアが加わって来た。南よりのドイツの圧力は日々に強化されつつあったのである。

斯くの如き情勢下に今次の大戦が勃発して彼等の所謂民主主義国家の陣営は凋落の一路を辿って、ドイツの飛行機と潜水艦の活動の範囲は大西洋に向って伸ばされて来た。大戦勃発と共に中立水域を設けて遠く大西洋の沖に巡洋艦を哨戒させ、空にはコンソリデーテッドの飛行艇と軟式飛行船を巡邏させ、同時に太平洋岸にも航空機に依る哨戒網を張ったのである。

大戦勃発に依り帰国を急いだ我々の船の上にこれ等の航空機は威嚇するが如く低空飛行を行って、米国の神経質な特徴を我々に示して呉れたのである。

斯くする内に欧州の事態は英仏空軍の援助から更に自国の再軍備へと転換せざるを得なくなったのである。

 

2        米国航空工業の立地計画

従来米国航空工業の中心は、太平洋岸の楽土カリフォルニア州であった。ここは四季晴天温暖で、常に海水浴を楽しめる様な好気候に恵まれ、僅かに我国の冬季の12月から1月頃少量の降雨があるに過ぎない。従って1日8時間、1週40時間勤務を建前としていた米国にとっては、絶好の飛行機工業の建設地域であった。暖房照明は殆んど必要がなく、従業員は気候のよいカリフォルニアに好んで集って来たのである。然も航空機構造および空気力学の権威として知られているカルマン教授を擁するカリフォルニア工科大学の航空研究所がこれらの航空工業と密接な関係を保って、その発展を促したのである。

即ち大西洋岸のロサンゼルス付近には嘗ては世界有数の大会社と称されたダグラス飛行機会社を始め、ロッキード、ノースアメリカン、ヴァルティー、ロッキードヴィガ、ノースロップ等の飛行機会社とメナスコ、キンナー等の発動機会社が蝟集し、その南のサンディエゴにはコンソリデーテッド及びライアン等の飛行機会社がある。

更に北に遡ればシアトルにボーイング飛行機会社があって、超重爆撃機型機および亜成層圏旅客機ストラトライナーを製作し、1938年よりはシアトルのワシントン大学に設けられた航空学科と協力して将来機の研究を行いつつあった。

米国航空機工業の他の一つの中心地は、東部海岸のニューヨークの附近であって、ここには比較的小規模の飛行機会社及び大規模な発動機会社が蝟集している。ニューヨークの北方には飛行機会社としてはベッドフォードのベランカ、ブリッジポートのシコルスキーがあり、またロングアイランドにはセバスキー、ブリュスター、グラマン、レパブリックが、またニューヨークの南方にはブリュスター、フリートウイング、フェアチャイルド及びボルチモアのマーチンの飛行機工場がある。マーチンの飛行機工場は1938年にはニューヨークよりワシントンに至る鉄道沿線に大規模な新式工場を建て、ドイツよりその技術を輸入したエンジニアリング・エンド・リザーチ・コーポレーションの新式大量生産用機械を設備していた。

発動機の工場としてはハートフォードにプラット・エンド・ホイットニーの工場があり、ニューヨークの南パターソンにカーチスライトの発動機工場、更にロングアイランドにはレンジャー発動機が工場を持っていた。

米国航空機工業の第三群は米大陸の中央部に近い好位置を占める工場であって、バッファローのカーチス及びベル飛行機会社、更に南に下ってはセントルイスのカーチス飛行機工場、ウイチタのビーチクラフト、セスナ、ステイアマン飛行機会社、カンザスシティのリヤウイン飛行機会社、インディアナポリスのアリソン発動機会社があった。然しこれら中部の会社はカーチスの諸工場を除き大部分が極めて小規模なものである。カーチスのバッファローの工場は1938年に出来上がったもので、当時最新式の大量生産工場であって1日2台の戦闘機を生産していた。

米国の再軍備計画は以上の既存の工場を基礎として、これを拡張すると共に新設工場は国防、特に空襲に対する防備を考えて、米国の中央部に建設する事になった。あたかもドイツがナチスの再軍備計画の際、自動車工場には補助金を出してドイツの中央部に工場を移転せしめ、また航空機工業の新設工場もドイツ中央部に建設した事と全く同様な行き方である。

斯くして米国中央部に多数の航空機工場が新設される状勢となって居る。而して発動機工場は主として中央北部に、機体工場は中央南部に集められて居る。

即ち発動機工場はミシガン湖畔マスケゴンのコンチネンタル工場を拡張し、またシカゴのビューイック及びステュードベーカー自動車工場及びデトロイトのパッカード及びフォード自動車工場を動員して、航空発動機の生産に従事せしめ、またインディアナポリスのアリソンを拡張し、シンシナティにはカーチスライト発動機工場を新設する計画である。

機体の方面に於てはカーチス会社はコロンブスに工場を新設し、セントルイスの工場を拡張し、ヴァルティー飛行機会社はナッシュビルに工場を新設すると共にその拡張を計画し、ノースアメリカンはダラスに新工場の建設を計画して居る。

更に政府に於ては中部の各地に政府の資金を以て大量生産工場を新設して、之を飛行機会社に貸与せんとして居る。即ちオマハの機体工場はマーチンに、カンザスシティの工場はノースアメリカンに、テウルサの工場はダグラスに、フォートウォースの工場はコンソリデーテッドにそれぞれ貸与する計画である。これ等の工場は何れも床面積1100000平方フィートである。

この政府の方針はドイツ政府の大量生産工場に対する政策と極めて類似した方法である。ドイツに於てはドイツチェルフトファールト、コントール会社と称する国策会社が設立され、ハインケルのオラニエンブルヒ工場を始め多数の大量生産専門の工場は、この会社より融資を受けて工場の建設を行って来たのである。

何れにしても米国の航空工業実地計画は爆撃の被害を考慮して漸次米国中央部に集中されんとして居るのである。

 

3        米国航空工業の規模

1939年9月今次の大戦が勃発するまでの米国航空工業の規模は世人の想像していたような大きなものではなかった。1938年の夏から秋にかけて筆者はその航空工業を視察する機会を得て、寧ろその貧弱さに驚かされたのである。

例えば1938年来の航空工業の従業員は機体約40000人、発動機プロペラ16000人程度であり、その機体月産台数は1938年末に軍用機140台、1939年末にも210台に過ぎなかったのである。而して1938には英国の注文により、先ずロッキード飛行機会社がロッキード・ハドソン爆撃機の注文を受け、11月には英国空軍の監督官がロサンゼルスに到着して政策を促●する事となり、次いで仏国も軍事用の注文を発したのであるが、これ等の英仏注文機を合せてもその月産台数は1938年末290台以下であった。

然も英仏及びカナダは今次の大戦の前後ダグラスDB-7型爆撃機、マーチン167型爆撃機、ロッキードハドソン爆撃機、ヴォートシコルスキー偵察兼急降下爆撃機、カーチス・ホーク戦闘機、ブリュスター戦闘機、ノースアメリカン・ハーヴァード練習機、ステイアマン練習機、コンソリデーテッド哨戒爆撃飛行艇を多量に注文したのである。1939年末までに実に戦闘機、爆撃機、偵察機を併せて5310台が注文され、練習機は2665台が注文された。総計7975台と云う莫大なる注文量は到底米国の当時の航空工業の生産力では消化し得る筈はなかった。1939年末までに英仏に引渡された飛行機は練習機285台を含めて僅かに850台に過ぎなかったのである。英仏が自国の資本を以て工場を建設せしめて米国を完全に自国の軍需工場とする事を計画したのは当然であったのだ。

斯くする内に欧州の戦局は仏国の降伏となって米国は自国の危険を深刻に意識するに至り、先ず自国の再軍備を第一としなければならない事態に立至ったのである。

斯くして海軍機年産35000台、陸軍機1500台の大軍備が計画された。然し当時の米国の実力を以てしては到底5ヵ年間に斯くの如き厖大なる航空工業の拡張は不可能となり、遂に陸海軍併せて年産3500台に修正され、前述の如く主なる自動車工場をも動員して之が達成に邁進するに至ったのである。

以上述べたような拡張計画の概要を述べるならば、先ず最大の拡張計画を有するものはカーチス・ライト社である。同会社は機体、発動機及びプロペラを生産する会社である。同社の飛行機工場は1940年初めには従業員数9200人に過ぎなかったのであるが、バッファロー市有飛行場に124エーカーの土地を購入して旧工場と同じ床面積である1100000平方フィートの新工場を建設して床面積を二倍に拡張して、従業員を12000人とする計画を立て、またセントルイスの工場は床面積を10倍に拡大してバッファローの新工場と同程度の大工場とし、またオハイオ州コロンブヌにも同程度の工場を建設する予定となって居る。

また発動機の生産拡充の為には従来のパターソンの工場(床面積3000000平方フィート)の外にシンシナティに床面積2000000平方フィートの大工場を建設する事となっており、またニュージャージー州フェアローンにも発動機工場を設ける予定となって居る。

プロペラ工場はフェアローン、クリフトン、ピッツバーグの現工場の外にインディアナポリスに新工場を建設する事となっている。

斯くしてカーチス・ライト会社は1940年末30000人の従業員を擁してドイツのユンカースに次いで世界第二の大工場となって居たのであるが、同工場完成の暁には従業員90000人を擁し、世界第一の偉容を誇らんとしつつある。その床面積は1940年の3700000平方フィートより一躍9330000平方フィートとなり、日産60台の軍用機と月産2000台の発動機を生産する事となるのである。

有名なダグラス飛行機会社は1938年には従業員8000人を擁し、一つの工場を有するに過ぎなかったのであるが、1年後の1939年末には従業員11300人を擁するに至り、また分工場もエル・セグンドとロングビーチに建設して鋭意拡張を行い、将来は4000000平方フィート、従業員35000人となる予定である。また其の大量生産の下請工場としてはミシガン、ニューヨーク、オハイオ、ミズーリ、カンザス、コロラド各州の自動車工場を動員して部品の製作に従事せしめる事となり、既に75000000ドルの部品がこれらの工場に発注されている。ダグラスはこの外に床面積110平方フィートのテウルサの政府建設の大量生産工場を利用し得るから、将来総床面積5500000平方フィートとなる訳である。

以上は拡張計画の二例を挙げたに過ぎないのであるが、その他の会社に於ても小なるものはチラークラフトに至るまで拡張計画を行い、更に部品、計器、無線等の艤装品制作会社も大拡張に着手せられているのである。

以上の拡張計画の結果として米国の航空機工場の床面積は事務所を含めて1938年末の9600000平方フィートより1940年末には一躍二倍強の22500000平方フィートとなり、本年末には38000000平方フィートとならんとしている。

これを生産品目に分類すれば機体の生産床面積は1938年末の5500000平方フィートより1940年末には12000000平方フィートとならんとしている。

また発動機及びプロペラは1938年末の1000000平方フィートより昨年末には7000000平方フィートとなり、本年末には12000000平方フィートとならんとしているのである。

更に労働従業員は1938年末の40500人より1940年末には127000人となり、本年末には250000人となる予定である。

昨年末の従業員の内訳は機体生産の労働力95000人、発動機プロペラ32000人、非労働従業員45000人であった。

斯くしてその機体月産台数は昨年末には練習機を含め780台に達したのであった。また本年末には機体月産2400台の目標に達せんと努力しつつあるのである。

 

4        拡張計画の内容

さて以上の如き厖大なる拡張計画を極めて短時日に遂行せんとする米国は、ドイツの例に倣って工場建設を短時日に遂行する為にあらゆる方策を行っている。その最も著しい例はクリーブランドのオースチン会社の全閉式工場である。この会社の全閉式工場建築は事務所に僅かに巾の狭い窓が一列にあいて居る外は、全部密閉式であって、工場にエアコンディショニングを行い、一定の温度と湿度を与える様にし、然も常に照明を行って作業するもので、その目的とする所は、工場建設期間の短縮と24時間作業に於ても常に同様の条件の下に作業し得る点である。この方式で建設された15エーカーの床面積を有する工場は90日間で完成し、また150000平方フィートの工場は71日間で完成したと称している。

ナチスドイツの航空再建に関しハインケルのオラニエンブルヒ工場及びヘンシェル飛行機会社のシェーネフェルト工場の建設所要日数にも比較し得る好成績という事が出来るのであるが、ドイツの工場が窓を広くとって採光通風をよくして明朗健康なる工場を建設したのに対し、米国は自然の恵たる日光に浴しない様な工場建築も採用しつつある点で、従業員の健康上如何かと思われるのである。

1938年末筆者が米国を廻った際には米国の航空機工場の従業員福利施設は極めて貧弱であった。ロッキード、ダグラス等の大会社でも従業員の食堂の設備は見るべきものがなく、会社の前に所狭きまでに立並ぶ屋台店を利用して昼食を摂るという様な状態であり、従業員住宅は建設中であった。況や他の群小航空機会社の福利施設は極めて貧弱なものであった。これ等の点はドイツに比較して甚だ見劣りがしたのである。

また最近、米国の航空機工場の一単位の床面積が政府建設の大量生産工場は勿論、カーチスその他に至るまで、ほぼ一定にに値を採用している点はやはりドイツの経験を取入れたものと思われるのである。

更に翻って大量生産の技術に於てもドイツの経験は彼らの拡張計画に役立つ事非常なものがある事と思われるのである。何となれば米国は嘗てドイツに航空機の大量生産技術を輸出し、その関係でドイツの工場組織を最もよく知るものは米国であるからである。これに彼等が有する自動車の大量生産方式を採り入れるとすれば、この方面では米国の拡張計画は相当進展するものと見なければならないのである。大量生産用機械に於てもドイツの技術を預入したエンジニアリング・エンド・リザーチ・コーポレーションは既に数年前からドイツの機械を国産化して居るのである。

最後に米国の航空工業の弱点は、何と云っても従業員の愛国心の欠如である。既に1938年当時より仏国の人民戦線政府の治下に盛んに行われた座り込みストライキが米国に移入されて相当問題になったのであるが、今次の拡張計画の進展と共にヴァルティー飛行機会社のストライキを契機としてC・I・Oのストライキは漸次米国全土に波及し、遂にストライキの経験の無いフォード自動車会社までも之に巻込まれたのである。嘗ては従業員のストライキに依り仏国の航空工業の生産力は信ずる事が出来ない程の低能率に低下し、ダラディエをして「仏国は共産主義を必要としない」と叫ばしめたのである。

現在までの米国の航空工業の成績を見るに、彼等の計画が極めて大規模であるに反し、その実績が比較的上がらないのは、斯くの如き点に存する様である。例えば彼らは声を大にして太平洋の渡洋作戦を口にしているが、昨年までに米海軍に引渡された哨戒爆撃飛行艇はコンソリデーテッドPB2Y-2型飛行艇約●0台、マーチンPBM-1型飛行艇20台に過ぎないのである。また注文されてこれ等の飛行艇は579台であるが、これ等もストライキに悩む米国航空工業が果たして予定通りに海軍に引渡し得るか疑問である。また陸軍関係の大型機としてはコンソリデーテッドB24型を始めダグラスの二爆撃機があるが、これ等の生産量も現在の所大したものではない。

之を要するに、米国の航空拡張計画の成果は本年の実績如何に依って居ると云えるのである。彼等の航空機工業拡張計画が単なるジェスチャーかどうかは、本年末になれば判明するであろう。