昭和28年5月 航研機の世界記録樹立15周年を迎えて

 

山本峰雄

  • 記録飛行

昭和13年5月13日の未明4時54分、東京帝国大学航空研究所の長距離試作機は木更津海軍飛行場のコンクリート舗装路上で記録飛行の準備を全く終り、発動機を始動した。機上には13500㎞の長距離飛行のための燃料4331㎏と滑油270㎏や乗員3人の食料飲料水58㎏が積まれ、脚のオレオもタイヤも9239㎏の満載重量をうけて縮み、巨大な紅色の翼も燃料をはらんで重たげに撓んでいた。
正操縦者藤田雄蔵氏、副操縦者高橋福次郎氏、機関士関根近吉氏の3名が機上にあってフランの保持するFAIの周回航続距離世界記録を破るべき3日にわたる飛行の首途の爆音に全身の神経を集めていた。
4時55分発動機のレバーが入れられて、重い機体は滑走路の上を滑り始めて重々しい足どりではあるが徐々に速度を増し、やがて尾輪をあげて、朝の大気にこもる水滴を木製SW‐5型プロペラの羽根端や紅色の翼端に凝集させながら海に向って滑走した。多数の関係者の息をこらすなかを滑走路を外れて芝生に20m入った位置で機体は空中に浮んで我々をほっとさせた。出発点にあったFAI記録審査員加治木氏のストップウオッチは離陸所要時間を58秒と刻み、離陸点にいた私のストップウォッチは52秒を刻んだ。
航研機は朝あけの黄金色に輝く空を背景として低空でゆるく紅翼を翻して旋回し、予定の如く木更津飛行場を離れて第二の旋回点銚子に向った。かくて木更津、銚子、太田(群馬県)、平塚、木更津をつなぐ401.759㎞の周回コースの旋回が始まった。余計な重量をなるべく制約して燃料を多く積むために無電機を持って行かなかった航研機の刻々の位置はコースに沿って動員された防空監視網によって木更津の本部に電話と伝令で伝えられ、本部と航空研究所との間は無線で連絡されていた。
航研機は出発後絶好の好天に恵まれて13日の最初の夜間飛行も無事に過し、飛行場の旋回点に待機する我々の上を予定の2時間の間隔毎に航空燈をつけてゆるい爆音を轟かせて通過していった。一夜明けて17週を終了した航研機は14日も快調な飛行を続けて、次第に新記録樹立期待を高くしつつ、15日の朝6時13分には23周を終って木更津旋回点上を高度1100mで通過し同日午後3時5分には27周を完了して10847.297㎞を翔破し、フランスが6年前の昭和7年3月23日から27日までの飛行によって作った世界記録10601.480㎞を破った。しかしこの頃より西方から次第に天候がくずれ出し、28周目には箱根の附近に雨が迫り29周では太田附近の天候悪化したため29周を終って午後7時18分木更津旋回点を通過した後、着陸し、ここに我が国の過去及び現在を通じて持った唯一の周回航続距離世界記録と10000㎞コース上の速度国際記録の二つを同時に打ちたてることができたのであった。
即ち航続距離はフランスの保持する全記録を1050㎞破って11651.011㎞となり、10000㎞コース上の国際速度記録186.192㎞/hであった。
これらの記録は昭和12年4月6日より9日までの間に朝日新聞の飯沼、塚越両氏が「神風」で作った東京ロンドン間のFAI都市連絡飛行記録(平均速度162.854㎞/h)と共に過去の日本が作った僅かに3つのFAI航空記録を構成するものである。

  • 航研機の生立

航空研究所はもと東京帝国大学の付属研究所として大正7年設立されたものであるが、大正12年の震災によって被害を受け、且つ敷地であった越中島が地盤沈下のため将来の発展に不適当であったので震災後駒場に移転することとなり、昭和5年に駒場の新敷地に移転を終って新しい意気で日本の航空学発展のために活動することとなった。当時の所長斯波忠三郎氏は舶用機関の権威者であって、嘗て日本の優秀貨客船として有名であった天洋、地洋、春洋の三船機関設計を指導した人であり、飛行機部主任の岩本周平教授は日本最初の飛行船雄飛号の設計、操縦を行った人であり、又発動機部主任の栖原豊太郎教授(現慶応大学工学部)は日本航空界の初期に航空発動機の研究に従事された人であった。これらの先覚者達が航空研究所の新築移転を機として我が国の航空界の発達をはかり、その水準を世界の水準に引上げようという大きな計画を樹立したのは偶然ではないが、昭和6年にはこれらの人達が計画した長距離機設計試作の計画が文部省に提出され、次いで昭和7年には三ヵ年継続として30万円の予算が議会を通過した。この昭和7年の夏、私はこの長距離機の設計及び研究試作を岩本教授から命ぜられたが、この大事業は到底一人や二人の力では不可能であることは余りにも明らかであったので、全研究所の研究を動員することとなり、ちょうどドイツから帰朝されて新しい世界の航空学の知識を持って大きな抱負の下に研究を行っておられた小川太一郎助教授を機体の主任者にお願いすることとなり、次いで栖原教授が旅順工科大学に転任された後は田中敬吉助教授(現千葉工大学長)が発動機を担当することになった。
この長距離機を作るという計画は当時世界を風靡していた長距離飛行の試作とそれによる相次ぐ世界記録の更新に刺激されたことはいう迄もないが、航空研究所の各部で行われていた空気力学、飛行機性能、機体構造、プロペラ、発動機、計器などの研究を総合して、長距離飛行の研究と長距離機の試作と試験飛行による実物飛行試験が最も適当であると判断されたためであることはいうまでもない。
実際の試作研究は昭和7年末から行われ航続距離13000㎞を目標とする長距離機の基礎設計が行われ、次いで風洞部に於ては深津了蔵所員が長距離機に適する揚抗比の大きな翼の研究を開始し、飛行機部では筆者が縦横比の大きな主翼構造の基礎的研究を、又発動機部では発動機の燃料消費率を下げる研究が行われた。更に長距離機の過荷重離陸に適するプロペラの研究が河田所員の下で行われ、測器部では長時間飛行に備える自動操縦装置の研究が、化学部では国産の高オクタン価燃料の調査研究が行われた。これらの研究の結果として、昭和9年8月には研究の結果を打込んだ長距離記録機の基礎設計が終っていた。これより前、この研究機を試作すべき工場の選定について数カ月の間航空研究所に於て議論が重ねられたが、発動機は川崎航空機株式会社で製作していたBMWⅥ型発動機を改良したものとし、機体は東京瓦斯電気工業株式会社と決まった。当時東京瓦斯電気工業株式会社の飛行機部は工員30人を有する小工場に過ぎず、金属製の飛行機の製作には経験がなかった。この小工場に世界記録を破る長距離機の製作を依頼したことは、斯波所長の亡くなられた後を継いだ和田小六所長の大英断であったが、この工場の熱心な希望と既製工場に見られない新しいものを受入れうる態勢とが、遂にこの栄誉を担うこととなったわけであった。
又この間操縦者の決定は、記録飛行の運命を決するものとして慎重な選考が加えられたが、遂に陸軍の藤田雄蔵大尉(後に中佐)が最適任者として陸軍に依頼してこの飛行の援助と共に試験飛行の一切が委ねられた。試験操縦者の選定はどの試作機に於ても重要であって、場合によるとその飛行機の運命をも決するものとなるのであるが、このような世界記録を目指す大飛行を行なうテストパイロットは、長距離記録飛行を行なうのに必要な豊富な経験と人格及び、試験研究を組立ててゆく技術と忍耐力を持っていなければならない。この意味で藤田雄蔵氏を得られたことは、この飛行機を成功させた一半の原因であったのである。当時フランスのドボアチンの戦闘機を日本に持ってきたフランスの名飛行家ドレー大尉を本郷に招いた我々関係者一同が、その長距離飛行の経験を聞いたりして徐々に団結を強めると共に、設計改善の参考としたのであった。又小川太一郎氏を始め我々は呉海軍工廠に実習に行って金属機製作の経験を聞いたりしたこともあった。
昭和9年8月から機体関係の我々は東京瓦斯電気工業株式会社の設計室に於て図面の製作に入ったが、その設計の負担は人員の少ない割に多くて、漸次仕事が拡大して行き、同年末には木村秀政氏(現日本大学)が新たに加わり、主翼、燃料槽、脚覆いは筆者が、木村氏は胴体、尾翼及び脚の設計を分担することとなった。
この間機体関係者は不慣れな工員で最高の技術を要求される設計を実現するという無理のために不必要とも思われる苦労を味わったが、2年半を費やして漸く昭和12年3月に機体が完成し、同年5月25日に至って始めて羽田飛行場で試飛行に成功した。そして数次の試験飛行によって研究室での研究結果を確かめて性能を把握し、遂に我が国航空界始まって以来の世界記録を打立てたのである。この間日本航空界の各方面の寄せられた好意は非常なものであって我々を鼓舞すること非常なものがあった。航研機の成功の一半は国民と航空技術者の後援の賜といってもよいと今でも思っている次第である。
航研機はいう迄もなく航続距離の大きなことを狙って全機揚抗比の最大値がなるべく大きくて、巡航速度附近にその最大値があり、燃料搭載量が全備重量に比して大きく、発動機は燃料消費率が小さく、プロペラは巡航時の効率がよくて、しかも離昇時の推力が大きいことなど航続距離に直接間接関係する要素についての研究を総合したものである。これがために特殊の揚抗度の高い断面が深津所員によって完成され、又有害抵抗を少なくするためにプレストン冷却を採用してその冷却器は胴体下部に半分埋め込んで、流線型覆いをつける方法を採用した。又主翼構造は単桁で特許を獲得した特殊の捩りブレーシングを採用して縦横比の大きい主翼の重量を軽減することに成功し、又脚覆いも特許を得た完全閉鎖式の覆いを採用して、引込脚の穴による主翼の抵抗増加を防止することができた。又座席の風防は引込式として胴体抵抗の増加を防止する等、あらゆる点に新しい考案がもられた。
これをその当時の列国の長距離機に比較すると全般に勝れていた。例えば航研機の前の世界記録を持っていたフランスのブレリオ110型長距離機は固定脚であって、張線で主翼を支えた旧式の構造を採用し、又ソ連のA・Nツポレフの設計したANT25型長距離機は同様固定脚を採用し、胴体主翼共航研機に比すれば遥かに見劣りのする設計であった。わずかに航研機と時を同じくして直線航続距離世界記録を樹立した英国のヴィッカース・ウェルズレイ長距離機が航研機と全く相伯仲する性能を持っていた。筆者は航研機の記録樹立後英国のヴィッカーズ飛行機会社を訪れて両機の記録祝賀宴で性能を比較する機会があって、このことを確かめて大いに意を強くした次第である。航続性能は航空技術の進歩と共に年々進歩したが、航研機の航続性能はその当時の最も優秀な飛行機に比して2割以上勝れていた。

  • 15周年を迎えて

今日航研機記録樹立の15周年を迎えたが、既に当時の航研所長和田小六先生、深津所員を失い、つい最近では機体主務担当者で航研機の成功に非常な尽力をされた小川太一郎氏(明大工学部長)も旧臘卒然として他界されてしまった。筆者は昨年末小川氏の亡くなられる2週間前にお会いした際、本年は航研機記録樹立15周年に当たるので記念会を関係者のみで行おうと提議して賛成を得たのであるが、今やその小川教授も亡く、この15周年を迎えることとなった。藤田中佐と高橋氏は既に私がドイツで航研機の映画と講演を行っている間に支那大陸で亡くなられている。然しFAIの世界記録の表には藤田、高橋、関根三君の名と航研機の名は永久に消えず、嘗ての日本航空界の名誉ある地位を語っているのである。
日本の航空界は敗戦によって文字通り壊滅の被害を蒙り、漸く自由の身となって2年を過したに過ぎないので、現在の航空界は殆んど外国機の購入運航という範囲を出ていないが、いつかはやがて第二の航研機が現れて平和な姿で世界に挑戦するであろう。我々は次代の青少年に望みをかけて15周年を迎えるのである。