最近、浄土真宗の講話を見る機会がありそこで取り上げられたトルストイの死生観に興味を惹かれました。トルストイの死生観は彼の執筆したイワンイリッチの物語に語られてますが・・・・どうやら一般庶民の持つ死生観に似たようなものらしい・・・・ざっくりした内容は末尾に添付。
突然やってくる”死との対面”に人間は誰もがうろたえる・・・・私の亡くなった父親は軽い検査のつもりで市立病院で検査を受けたが即入院となり覚悟を決めるもなにもそのまま二度と自宅に戻ることもなく亡くなった。亡くなる直前に見舞った時には顔の髭剃りを私がしてあげたが、剃り終わって涙を流す場面も・・・・死は誰にでもいずれやってくるもの、わかっちゃいるけど誰も助けてあげられない、一人自分だけで覚悟するしかない・・・これが大変なことなんですね。終活としてエンディングノートを用意するのがブームらしいが、まぁ、その前にトルストイの死生観に一度目を通しておこうかなんて考えています。それにしてもいつやってくるかわからない死がコロナ禍で人々を大いに悩ませたのは事実・・・・感染した患者さんはコロナというよりは死に対してうろたえもがく、おまけに臨終になっても近親者と手を触れることも許されない。沖縄戦末期の女子白百合隊が死に対する手記を残していたけどそこには『こんな暗い洞窟で死んでいくなんてみじめすぎる』という言葉が残されていた・・・・・・コロナで死にいく姿はあたかも白百合隊と似通っていたんじゃないか・・・
せめて人間らしい尊厳さが保たれた病室であろうと思いたいが・・・・・
ひとりの凡俗な人生を送ったイワン・イリッチが死んだ。栄達を求めて組織や上司に対してそれなりにうまく立ち回り、調和としての結婚もし、子どもも出来て、司法官として出世もした。子どもができた頃から家庭内はまずくなったが、勤務への精励を逃げ道にして、自分のこれはと思う人生を生きてきたのであったが・・・、とまあ、現在でもどこにでも居そうな人物ではあるが、そうしたありきたりな小人物を主人公にすることによって誰もに訪れる「死」というものをレフ・トルストイは容赦のない現実として読者へ突き付けた。
誰もが直面するはずなのに、それが現実感を持つまで自らのこととして向き合うことを避ける「死」。そうした普通の人物が「死」と向き合った時、その「人生」とは一体何であったのか?主人公イワン・イリッチが病魔の苦しみに悶える中で、「人生」を振り返る時、まさに身につまされるような葛藤が次々と展開されていく。痛みが身体を襲い、四肢が不自由となり、排泄物を人に頼らなければならなくなる「死」への身体的過程と、自分に対し真実を避けるような言動をとる家族への憎悪と孤立など、心身ともに衰弱していく生々しい描写が痛々しい。
だが、おそらく本作におけるトルストイの主題は、当時傾倒していたという宗教的救いの可能性を訴えることにあったのだろう。どこにでもいる普通の個人の「人生」と「死」を直截的に追求することで、誰もが体験するはずの最期の時にどう向きあえるのかを冷厳に提示し、ラスト直前にもたらされる「救い」はどのような人間にも等しく可能なのだと訴えかけているのだろう。しかし、ここにあえて普遍化を要求するならば、唐突感のある「救い」ではなく、もし「救い」が本当にあるのならば、葛藤の果ての諦観の転換としての到達をもう少し深化して欲しかった。いつか起きる自分の可能性のためにも。
