北野監督12作目、2005年公開の映画『TAKESHIS'』を初鑑賞しました。

 

キタノ映画のファンと言いつつ、北野監督の映画をすべて網羅していないことは、

全部観なくてもキタノ映画のことをわかっているという自負があったからです。

しかし、今回初めて『TAKESHIS'』という映画を観て、その自負とやらは完全に打ち負かされ、僕に残ったものは恥、ただそれだけです。

この前、『キッズ・リターン』を再び観て、その批評めいたものをnoteに綴りました。

noteでは『キッズ・リターン』はキタノ監督が事故したあと直後に撮られ、キタノ映画の転機となる作品だったと書きました。それは今も変わらぬ考えです。しかし、僕はそこから大きな失言をしてしまいました。何かというと、『キッズ・リターン』以降、キタノ映画は大衆化したなどと言ってしまったのです。たしかに、『キッズ・リターン』は大衆性が加味されたということは間違ってないと思います。でも、それ以降キタノ映画が大衆化の一途をたどったかというと、それは違うことを『TAKESHIS'』によって気づかされました。

 

TAKESHIS'

 

この映画はキタノ映画の中でも最難関とされる映画です。

filmarksのレビューなど見てると、わからないや意味不明などのコメントが多くみられます。そして評価はめちゃくちゃに低い。

僕は正直すべて把握できたわけではないですが、この映画はキタノ映画の5本の指に入るくらい好みの作品でした。

ただ映像だけを見れば、カオスそのものです。ふたりのタケシがいて、片方は実際のタケシに近い映画監督でチヤホヤされているタケシで、もう片方はコンビニ店員でフリーターのタケシ。その二人を基軸にカオスな話の展開がなされていくのですが、この内容は監督本人も言っているように夢の中のエピソードなんですね。なのでこの映画の内容は映像からそのまま読み取るのではなくて、夢を読み解くように隠喩的な表現として読み取るべきなのです。コンビニ店員のタケシはキタノ監督の「影」だと思われ、このひとつ前の映画『座頭市』がキタノ映画では珍しく興行的に成功して、外面的には絶頂の最中にあるキタノ監督でしたが、そのまったく対照的な存在として「もう一人のタケシ」が描かれています。推測ですが、この頃のキタノ監督は、絶頂にありながらもスランプにあったのではないかと思います。それが次作『監督、バンザイ!』にも如実に表れてます。映画の方向性に迷うキタノ監督自身が映画の中に登場しています。

また、キタノ監督本人がよく言っていますが、良いモノを撮った後にふざけたものを撮りたくなると。それはキタノ監督が照れ屋であるということが良いモノをつくったときにその反動を生み出していると思われます。自分とキタノ監督を比べるなどしてはいけないことだと思いますが、自分もかなりの照れ屋なので、この感覚が非常に理解できるのです。

まとめると、この作品は成功しすぎたキタノ監督の心の中で補償作用が働いた結果、誰にも理解できないようなものになったと考えられます。

いやほんとにキタノ監督には恐れ入りました。大衆化したなんてとんでもない。芸術性を高めまくってます。逆に前衛的すぎて、見る人を置きざりにしていってます。ゴッホの絵のように何年も先になってこの作品の価値が認められるのではないでしょうか。

キタノ映画はキタノ監督の内面の変化に応じてその作風も変化しており、ある時期から大衆化したなんてことは言えず、大衆化したと思えば、前衛的なものが撮られたり、変化の波があるというのが特徴であると思います。それだけキタノ監督は繊細で、心が揺れ動きやすい人であったと思うと、より親しみを覚えます。


 

 

 



 

おこがましいですが、この作品を理解するのに参考になりそうな本を下に挙げときます。

 

 

『TAKESHIS'』の脚本について監督が語ってます。

 


河合隼雄先生の名著です。題名の通り、「影」について平易な文章で詳しく書かれています。