宝積寺さんへ向かってる時、、、新しそうな塀が見えた、、、多分ここは、、織田氏のお墓のあるとこだったような???綺麗に整備でもしたのかな?って参拝後に寄ってみたら、、、それはもう綺麗に整備されてました。
織田信長公の次男信雄公は大和松山と、上野小幡に領地を賜り、、、元和元年(1615年)に小幡に陣屋を構え8代152年織田家が治めました。
元は宝積寺が菩提寺でしたが、、4代信久公が崇福寺を再興し菩提寺に、、3代の墓も移したそうです。
宝暦8年(1758年)に焼失し再建後、、、明治4年(1871年)にも失火したが、、、お位牌だけは大切に守られてきたそうです。
右側のお堂が位牌堂です。
そして、、、織田宗家七代の墓
こんな綺麗に整備されたんですね(代々さまの廟が出来てる)
令和2年に綺麗に整備されたそうです。
明治の火災で廟は焼失、、5代、6代、7代さまの墓地は破損したそうです。
以前はこんな感じで(画像はいただいてきました)、、、、細い畑道みたいなとこを行った先に、、鬱蒼してるとこにあった記憶があります。
信雄公のお墓
歴史では愚かに書かれることが多い方ですが、、、あの難しい時代に家を残したんだから立派だと思いますよ。
信長公が凄すぎるんですよね(信長公の織田家は元々尾張の下4郡の守護代の分家、、、清州3奉行のうちの1家ですからね)
手を合わせお参りしました。「
平和への祈りと禅語に親しむ巡礼を再開します。