全人類の共通の目的は、おそらく幸福感を得る事だと思う。
ごく稀に、生涯において幸福を必要とせず「徳」を重んじる人もいるとは思うが、それはやはりごく稀なケースだろう。

充実感や幸福感は一体どうやったら手に入れる事が出来るのだろう。

感覚的に言うと、現段階よりも望ましい状態に変化する時、人は充足感をえる。
例えば、空腹でいるときの食事は満腹の時に食べる食事よりも充足感がある。
疲れている時の睡眠はどうだろう。
また人恋しい時に交わす挨拶だってそうだ。

人は何か足りない時に、それを補われる事で幸せを感じるシステムになっている。

我々は不自由と隣り合わせの富を重ねているとも言えるのではないか。
どうも、頑張っている人だとか、目標がある、向上心がある、なんて言葉を聞く時に違和感を覚えるのはここの感覚の違いによるものでは無いかと考えてしまった。

もちろん、未来を考えて行動し、実行することは集団として機能する時に必要な事ではある。
ただし、この幸福のメカニズムを考える事無しに実行する、その危うい思い込みは時に幸福から遠のいてしまう。

自己の奥深くに根付いている、この見えそうでみえないモノと長く向き合える人と人生を歩んで行きたい。


そしてそんな見えないモノを手探りで掴もうとするきっかけになるものが旅ではないかと思う。
旅で得れるものがあるとすれば膨大な写真と、こんな事を考える時間くらいだろう。
「経済学」というと、小難しく電卓弾いてドライな事のような印象を受ける。
実際私も、意識するまではそんなぼんやりとしたイメージをもっていた。

私の周りに信用おける経営者が数名いるが、彼らははたしてドライなのだろうかと思う事がある。

「数字」とは、使い方や司りかたによって、「ドライ」とは全く逆の価値を持っているのではないかと最近思い始めた。


最近カンボジアに行く事が何度かあって、発展途上国の経済について考える機会があったのだけども、複雑な心境になる事が多く、ホテルで寝る前に物思いにふけってしまう。


カンボジアは今、ものすごい勢いで発展しているらしい。過去を知らないので現在から汲み取るしか無いのだけど確かに建設ラッシュはものすごい。
50階くらいあるんじゃないだろうかというようなビルも、ボコボコ建っている。
そのビルが見える道路の端には、トゥクトゥクが停まっていて日に焼けたドライバーのおじさんがヤシの実のジュースが入ったビニール袋を持ちながら空を見上げていた。
きっとこのおじさんの人生と、あの50階建ての高層ビルは関係ないんじゃないだろうかと思う。
おそらく高層ビルに入居するのは、カンボジアの官僚か外資の金持ちだけだろう。
どんな気持ちで日に焼けた労働者のおじさんは空を見上げていたのだろうか。

私は日本に生まれ、そして生活して来た。
決して貧乏ではない生活をしてきたように思う。
いや、どちらかというと便利で快適な生活を送ってきたのではないかと思う。
しかし、どうしてもカンボジアの空港を出た直後に受けたあの凄まじいパワーに、嫉妬心を抱いてしまう。
我々は経済大国に生まれ、その恩恵を十二分に体験しただろう。
その結果、発展途上国という果てに訪れ、未来を探している。


私はカンボジアの人たちに「外資が金儲けにやって来た」と思われたくはない。
だけど、本当の所はどうなのだろうか。

私は寄付について疑問を持っている。何故ならば根本的な解決にならないからだ。
それよりも職業訓練をして、お金を稼ぐ術を教えた方がきっと素晴らしいのではないかという思いがある。
だけど職業訓練を受け、世界に通用する技術や知識を持っている我々は、国内で幸福を見つけられずカンボジアの地に行き着いている。これは矛盾するのではないだろうか。

それは大学受験に失敗した人が、受験生に教えるような事となんら変わらないのではないだろうかと思う。
だから、絶対に上からの目線で途上国を見てはいけない。そんな事をしたらはじき出されてしまう。
やはり、教えを乞うスタンスでいるべきなのではないかと思う。


私個人は、お金を稼ぐ事にこだわっている。
むしろ、こだわっていなければならないと思っている。
それはシンプルに、お金が無いと助けたい人が居る時に助けられない可能性があるからだ。
例えば母親が最先端医療を必要とした時に、出せるポジションに居たい。
それで母親に何かしてあげた!とは思わない。
きっと個人で出来る事は、医療を受けさせる事よりももっと他に大切な事があるというのは解っている。だが、そんな事を認めていたら私は自分を許せないだろう。
何故ゆるせないのか。
大切な人が苦しまなくても良いチャンスを、無駄にする事を許せないのだろう。





数字とは想像力の話だと思う。


数字が弱いなんていう男は、想像力が欠けているのだろう。もっと乱暴に言うと、自分勝手で優しくないという事だと思う。
相対的、複数間問題を解決する為には、感覚ではなく数字が必要になってくる。
自分の問題を解決するのは、感覚で十分だろう。

例えば、自分の体調を管理するのは感覚で十分だと思う。
体温計もいらないし、体重計もいらない。
自分が感覚的に辛ければ病院に行くし、薬も飲めば良い。
しかし、それが他人の事となると、感覚だけでは情報が不足してしまう。
そこで体温計や、脈なんていう「数字」が必要になる。
数字は言葉を変えれば、「自分以外のものを想像したとき」だ。
俗っぽい言葉で言うと、「気遣い」や「優しさ」や「愛」だと思う。


経済を考えたとき、電卓を弾くよりももっと先行する事がある。
日本が経済成長して、未だに日本のサービスが世界一というのはなぜか。
色々意見があると思うけれども、私が思うのは感謝をお互いしてしまうという精神が一番の商品ではないかと思う。

商品を提供した人が「ご来店してくれてありがとう」と思う。
商品を購入した人が「購入出来て感謝したい」と思う。

その気持ちが何よりも高等な商品であるから、未だに世界一と言われているのではないだろうか。

そんな現場を見ていたら、胸にこみ上げてくるものが私にはある。

これが全ての経済であり、経済学だと感動してしまう。


ドライな経済学は衰退して当然だろう。
なぜならこんなに素敵な経済を念頭に置いて、今日も四苦八苦している経営者が沢山日本にはいるからだ。

私もその経営者の一人として生きて行けたら、そんな素晴らしい事はないだろう。
世の中には夢中になるものが無いという人が多い。
私もその一人かもしれないと思うときがある。
好きなものを挙げろと言われれば、いくらでも挙げる事が出来るが、夢中になれるものとは違うような気がするしてしまうので「興味がある」なんていう表現に落ち着いてしまう。

夢中になるとはどういう事なのだろうか。

子供はよく遊びに夢中になる。何時間でも同じ事を繰り返したりするのを、甥っ子が出来て実感した。
大人はそれを見て分析をするのだが、果たして夢中になる理由なんて説明出来るのだろうか。


私は常々、意識していなかったけれども計算して物事を好きになったりしていたのかもしれない。
好きなもの事態を「好き」になる事なんて、とても簡単な事のはずだった。

例えば美容師をやっているけれど、それは本当に好きな事なのだろうか。
本を読む事も好きな事だけれど、読む本の半分以上が読むべきだとして読んでいる。
例えば純文学を読むときはすごいエネルギーを使いながら読む。
辛い作業ではないが、弱っている時に読みふける事は出来ない。
映画もそうだ。


そして、するべきだと考えて行っている作業に関しては、夢中とはほど遠い所にある。
何故なら、それらの事は全て説明がつくからである。


夢中とは説明が出来ない。
「好きだから」「気持ちがいいから」と、そんなとこだろう。




おそらく夢中を続ける事が出来たとして、手放さなければいけない事も出てくると思う。
例えば私は動物とカメラが好きだから、おそらく動物カメラマンなんてやると夢中になる瞬間が沢山あるだろう。
そして世界を旅しながら写真を撮る事になるわけだが、それと同時に安定した生活と裕福な社会生活とは縁が無くなる。
ただ、幸せや楽な気持ちとは親密になるのかもしれない。



やはり、ここに帰ってくる。

自分自身とよく対峙してみる事だ。
本当に自分は何がしたいのか。
本当に自分に問う事は難しい。
だが、ここからしか始まりようがない。


幸せで楽な人生を送りたいのか、もしくは辛い事が多くても自分自身の評価を重要と考えるのか。

生きているうちに「徳」を高める事が出来るのであれば、80年くらいの人生、辛くても良いのじゃないかと思う事がある。幸せになる必要性はない。
だが、生きる事がその人の全てで想像をそこから出ないようであれば、幸せを目指し楽になるよう考える事が良いのではないだろうか。



どちらがどうなのか、という評価的なものはまだ私には解り得ない。

辛い事が面白くない訳ではないし、幸せでいる事は無知と紙一重である可能性があるわけだから。




気づいてしまった時、解らないものが圧倒的な量で増えていく。
そして理解したい、体感したいという欲求から逃げ切れない限り、幸せも強かさも同時に手に入れる事は到底時間が許してくれない事のように思う。
<最近の若者は>と私が言われていたのはもう10年程前だ。
最近は「ゆとり世代」が社会人になっているらしいから、やはりこの世代も<最近の若者は>である事が多いらしい。

確かに私よりも10歳年上の人と10歳年下の人では社会情勢が違う気がする。
30代の平均年収は200万も落ち込んでいるし、ニュースでは老後の不安を煽るような話題で持ち切りだ。

私の世代はというと、コンプレックスにまみれた、行動力と実力が伴わない人間が多い。
例えばツイッターやフェイスブックのユーザーのボリュームゾーンは30代前後なのではないだろうか。
確かに彼らは巧みにSNSを使いこなし、それがトレンドである事に満足している。
ある人は言う。SNSが今後のビジネスのメインになっていくだろう。
彼は言う。もうこの国はダメだ。海外へ移住しなければいけない日がやってくる。
私もその考えに対しては同意する部分もある。

現在の40代、50代はアメリカに憧れていた。
それはとても楽で、誰からも否定される事がなかったかもしれない。
しかし今はアメリカを目指す事はない。何故ならちょっとダサイからだ。

今日では何を目指していいのか、明らかなものが無くなっている。

近くに居る大人は貧乏でつまらなそうにしているし、仕事で目をギラギラさせている人がかっこ良く映るのは22歳までだろう。
北欧(スウェーデン)が福祉や政治のトレンドになって、もう10年ほどだろうか。
だけど私が出会った中で北欧に長期間行った事がある人間、もしくは住んだ事がある人間は2人しか居ない。


ガタガタとテーマが飛び散って進めてしまったが、つまりどういう事かというと、結局何にも解っていないと言う事だ。
むしろ、解っていない事さえも気付いていない。簡単にいうと、アホは死ななきゃ治らないという、悲しい現実。



乱暴で偉そうに聞こえるかもしれないけれど、普通に生活していて異常だとしか思えない事が本当に多い。
ツイッターやフェイスブックに依存しなければ生きていけない心理状況、もしくは生活環境、もしくは概念は、痛々しくて見ていられない。
色々と考えてしまう。
声を大にしてSNSと叫んでいる彼に、おそらくSNSビジネスを成し遂げる才能はないだろう。海外に移り住むと言っている彼女は絶対に日本に居た方が幸せだろう。


体に良いものは旨い。
この感覚を全員が持っていれば世の中平和だったかもしれない。
しかし悲しいかな、砂糖タップリのものは旨いし、生け簀がある和食屋で刺身にしたばっかりの養殖の鯵を食べさせるとみんな旨いと言う。

それが悪いとか、直した方が良いという事ではない。
只、ダサイってことだ。



本は読んだ方がいい気がするから本を読む。
ヘルシーが流行っているからバカ高い無農薬野菜を食べる。
アートが解るようになりたいから美術館に行く。
スティーブジョブスが好きだからmac商品を買う。


どいつもこいつも恥知らずで下らない。
活字は情報が不足していると思っている人間が、必死こいて読みあさるものだし、ヘルシーがヘルシーである構造を完全に理解していないと広告に振り回されるし、「美術館に行く俺」が目的な人間はアートと反対の位置に存在しているし、スティーブジョブスのどの辺が好きかも理解していないのに軽々に口にして行動するその軽薄さにジョブスは絶望するだろう。


どの時代にも共通する事かもしれないが、解らないと言う事は問題ではない。
それよりも気付いていないという方がよっぽど危険であるという事だ。


偉そうに聞こえるかもしれないし、解った風な事をただ言っているだけに聞こえるかもしれないが、本当に言葉を選んで極力攻撃的ではなく書く事に専念した。
どうしてこんな事をここで発表したのかというと、どうしても辛い夜に誰とも話しをする気になれないというのは、とても辛くて不幸な事だと思ったからだ。
ここ最近真夏日が続いていますね。
どちらかというと冬の方が得意ですが、ここまでスカッと晴れてもらうとそれはそれで気持ちがいいもんです。

子供の頃の天気予報皆さん覚えてますか?
今30歳前後、もしくはオーバーの人は記憶にあるはずですが、小学校くらいの時の天気予報の曖昧さったらなかったですよね。
降水確率80%でも平気で外して快晴ってことも多々ありましたし、当然逆もありました。
ところがどうでしょう。最近の天気予報ときたらまず外さないじゃないですか。
しかもリアルタイムに現在地の天気を報告出来るインターネット情報なんかもあったりして。凄いんです。


しかしここにきて、どうしても納得いかない事が。


降水確率50%



ん?一見よく見るいつもの風景。
そういう予想もあるでしょうねと、心優しいあなたは思うかもしれません。
そしてあなたはどうしますか?
その傘、一か八か持って行きます?
会社に着いたら自分だけ。なんだったら「なんで傘?」とか言われる始末。
あなたその傘で迫害を受ける事になりかねませんよ!


「折り畳み傘もってるんで。」



お前はどれだけ心優しいんだ!
そういう事じゃない!
問題は50%って事だろうよ!

解りやすく50%を日常会話に変換しましょう。
つまりこういう事なんですよ。


「ほら、タケシ!傘もって行きんしゃい!さっきツバメが低く飛んどったで!ほれ!面倒くさがらずに!そのとーちゃんの大きい紺の傘ば持っていきんしゃい!あ?カッコワルい?そんなんどーでもええから、大きい方が濡れんやろ!ほれー!それもって学校行きんしゃいよ!」


とこういう事になる。

要するに、「よく解んないけど、降るかもしんないし降らないかもしれないから!」

って事なのだ。


つーかそれを知りたいから天気予報見てんだよ!!

お前らもプロなら40パーセントか60パーセントにしろ!
少しでも良いからどちらかに偏らないと、それは予報でもなんでもなくて、ただのかーちゃんの小言と変わんないって事になんないのだろうか。


そして一番の問題は、それを問題にしていないこの生温い国民に他ならない。
厳しい方が良いとか、もっと世の中便利にとか、グローバルにならなきゃとか、そんな大それた話しはしていない。
ん?それって変だろ。
と気付いて、ツッコミをいれなければダメなものが蔓延る世の中になってしまうってことなんじゃないだろうか

それでも良いよと多くの人は言うでしょう。

多分そう言うはず。

そう本当に心から思う人が多いけど、それはそれでいいんだけどさ。
でも俺はそんな人に全く興味が湧かない。

ベーシックに死んでいく事は怖いと思う。
「通勤で自転車を推奨する会社の社長は馬鹿だ」

wired cafe で耳にした言葉だ。

ある中年の男性が怒りを込めて言っていた。

どうやら少し話しを盗み聞きすると、本人が自転車で大きな事故を起こしたらしい。

彼の主張としては、


健康ブームにのっかり、通勤に自転車を推奨するなんてバカな社長だ。もし事故を起こしたらどうするんだ。会社がその責任は持てるのか!


と言う事らしい。

ちなみにその男性は平日の昼間からユニクロで買ったような服を着て禿げ上がっていた。


私はこれから先どれくらい我慢をしなければならないのだろうか。
こんな駄目な男たちの為にどれだけ私の作業は増えるのだろう。

はっきり言えるのは、会社はそんな責任はとれない。そして、そもそも取る気もない。
第一、自転車で事故を起こすなんて個人的な問題だ。
もちろん推奨ではなく、義務にするとこれは微妙な問題ではある。
だが、今回の話しは「運動をすると体に良いらしいですよ。」という、会社のアドバイスだけでしかない。

なぜ皆大人になって禿げ上がっても、誰かが自分の面倒を1から10まで見てくれると思うのだろうか。
そのうち禿げてしまったのも社長の責任になるかもしれない。

これは私が社長業をやっているからと言う訳ではない。
幼少の頃から、ぶれずに持って来た考えである。

「なぜ教えてくれなかったんですか」「私はどうしたらいいですか」「何か楽しい事はないですか」「失敗してしまったんですが何が悪かったのですか」

すぐに人に聞く癖がついている。

そんな事正直私には解らない。
そしておそらく私に利益がある限り、そんな時その人には「解らない」とは答えないだろう。


なぜですか。

子供ではない、大人の台詞としては恥である。
もう15歳ではないのだ。



どうかしているとしか思えない日常が本当に世の中に転がっている。


もう気付いて、自分の為だけに皆アクションをして欲しい。
みんなの為に という胸を張れる負けは、もはや醜態で悪であると気付いて欲しい。

自分の為だけに成長出来る人だけが、人に影響を及ぼせると知って欲しい。

これは自分さえ良ければなんでも良いと言っている訳ではない。
もうそんな解釈をする奴の事は私は知らない。
私もそれなりに必死に生きている訳だから、そんな余裕も暇もない。

充実を手に入れるのはとても困難な事ではある。
だけれども、それを目指す事無く諦めてしまうのはとてももったいない気がするのは私だけだろうか。
地球上の生物、一部を除いてはすべてに男女の区別がなされているのはなぜだろう。

こんな根本的な謎、もはや「どうして地球はまーるいの?」と同等、もしくは少しアンダーしている単純な謎の一つである。

だって、どう考えたって変じゃない?「一人で出来るもん」な生物がいるんだったら、

すべての生き物がそうゆうプログラミングされているほうが、生命を繋ぎ止めやすい筈である。

どうやらこの問題、実はとっても難しいお話になってみると説明出来るらしいが。。。。。

そんなロマンのない話は犬に食わせとけ!である。


セク-ス。

ゴールデンタイムとご両親の前ではあまり発言したくないこのフレーズ。一体なんなんだろう。
ラブ、もしくは愛。

これは24時間テレビでテーマになってしまうくらい正義な言葉である。

しかしこの深夜枠なセク-スと、ゴールデンタイムな愛という二つの言葉。

相反する言葉のようで、男女間には切っても切り離せない関係であることも周知の事実である。




どちらが先で正解か?
と聞かれれば、おそらく愛あってのセク-スであろう。
セク-スあっての愛は、道徳的ではないとされているみたいだし、一応こーゆー事を肯定する発言は

恋人に怒られる気がするからやめて起きたいのが紳士である。ヤッパアイダヨ、アイ

人はたまに恋をする。

っていうか、新宿の繁華街を歩くと5分に一度のペースで恋をしてしまう。

それが果たして純愛かどうかは別として、人を好きになるきっかけ(つまりラブアンドザセク-ス的なものに近づくきっかけ)

はゴロゴロと道端の小石のように落ちているものである。
だが残念なこともある。

それはなんと言えばよいのか。。。。

夏休みの開放感というか、低温なドラマというか、真夏の果実というか、よくある話しというか、

あんなに愛し合ったけれど、彼の名前はアキラってことしか知りません的なワンナイトカーニバル。

ゴールをセク-スに設定され、この夏ノースキンで中田氏を初体験した悲しい乙女のお話し。
しかしここで誤解を招かないためにも、男性を代表してこれだけは声を大にして言っておきたい。

「マヂ、ごめん!!」


いや、違う。そーじゃない。
こちらもまさかそんなゴールが待ち受けてるなんて、思ってもみなかったんだもん。である。
女性の気持ちは体験できないので詳しくは解らないが、男性の僕からしてみればこうゆう事だ。

男性は自分の考えがよく解らない生き物である。


はい、解ります。あなたのその白い目。言い訳がましい男の言い分がはじまりそうなこの空気。

そうです。聞いてください。デビューシングル「絶対なんにもしないから」



はい、まじめに話します。聞いてください。

世の男性が正直に話さないから僕が正直に話します。

男性は射精をする前とした後では、感情が大きく変わってしまうというお話しです。
ごめんなさい。これは目を背けたくなる真実です。ごめんなさい。

どういうことかと言いますと、男性は射精後30分ほど驚くほど「素」になってしまうのです。

モト、ではないですよ。スです。
だから恋からのスタートでセク-スゴールの場合、彼は1クール終了したような、

打ち上げがこの後ありそうな感じになってしまうこともしばしばみられます。

あなた、経験おありですか?そうです。あれですね。

名曲にも歌われています。

寝たふりしてる間に出て行ってくれ  ああーああー  by ジュリー

きっとそれは恋が愛を勝ってしまっていたのでしょうね。
もちろん、お互いが恋で始まっていたのなら良いですが、

やはりどちらかが恋で終わりたくない、育んで「愛」まで昇華させたいと願うなら、

それはもう今後の二人は、月曜日の9時から放送される感じの展開が待っていることでしょう。


悲しいかなセク-ス。このように一方が動物的にセク-スという行為を行ってしまうという温度差が

上記の「人前で口にすること」を憚れる大きな要因なのかもしれません。

何か後ろめたい欲望だけで行為をしてしまったという恥じらいなのでしょか。


それでは逆に、人前でセク-スと発言しても恥ずかしくないセク-スとはどういうセク-スなのか。(ウルサイデスガ・・・)

やはりこれは愛に始まるセク-ス。いや、愛が多く含まれるセク-スですね。

愛に始まる(愛が多く含まれる)セク-スは、ゴールが当然セク-スではなく、愛を深める手段としてそれを応用した場合であろう。

それは決して正常位しかしないセク-スって話しではないけれど、「初めてだけれどAFです。」っていうセク-スでは表現しきれない、

愛を含めたセク-ス。

解るだろうか。


誰でも言える様なこのチープな説明。すごく当たり前だけれども、セク-スは9割以上スキンシップなのだから、やはり

手段として行えたらそれは恥ずかしくない行為なのではないのか。

男性における具体的な愛情のバロメーターとしては、射精後キスをしてくるか、愛していると言ってくれるか、

抱きしめても抱きしめられても嫌な素振りはみせないか。。。。。(元々しない人だったり、言わない男性ならしょうがないけど)

本当に単純な生き物ですから、男性はこれだけで十分愛の所在を確かめる事が出来ると思います。(男性自身も自分に聞いてみて下さい)

しかし、こんなエロイ話しを真面目ぶって話す僕は一体何者なのでしょう。実は童貞なんですけどね。
発射後の本当の感情については話すと長くなるので、この辺でやめておきますが

どう考えたって一日中エロイ事を考えてないと思いつかないような考えばかり。色々残念です。

さて、どうして男女が存在しなければならないのかという疑問はまだ解決されていないので、

少しだけ上記を踏まえて話しを戻しましょう。。
それはやはり単純明快な回答が僕の中にあります。



一人よりも、絶対に二人が楽しいから。

こんな回答ダメ?

単純なようでとってもロマン溢れる答えだと気に入っているのは僕だけでしょうか。

一人でいるよりも、君と愛のあるセク-スしている方が、僕は嬉しいから、やっぱり男と女は必要。

そして君が女の子で良かった。だってセク-ス出来るから。ワーイ

と、こんな感じです。
いいんです。賛同を得られなくても。

でも僕はいつか、お嫁サンバになってくれる女性にプロポーズする時は、セク-スネタでいこうかと考えています。


もし一人で生命を繋ぐ能力があったとしても、君と一緒に愛を育めないのなら。

生命を繋いだとして、僕の子孫もきっと君を見つけたりしないだろうから。

一人がどんなに寂しいことかって気づくことが出来ないなら。

君の肌がとっても気持ちいいって事を知ることのない一生なら。

そんな人生意味がない。

僕は君と沢山セク-スがしたい!!死ぬまで俺とセク-スしてくれ!!


運良く笑ってくれる事はあっても、感動される事はないでしょうね。

将来子供に、おかーさんはなんてプロポーズされたの?

なんて聞かれたらおかーさんは嘘つきになるしかないです。でも実際、

どーして子供は生まれるの?って質問に
それはね、おかーさんとコウノトリがパコパコだからよ
と、答えるおかーさんは居ないから、どの道みんな嘘つきです。


さて、話しは右へ左へと寄り道だらけでしたがいかがだったでしょうか。

愛とセク-スはまるで二つの事柄のようですが、実はそれは同じ事柄を総称した言葉なのかもしれません。(スルメとイカの関係)


愛が起こす奇跡の一つにセク-スがあります。

愛のあるセク-スを。

電車に乗る機会が増えて早2年が過ぎました。
電車の中では本当に沢山の人たちを目の当たりにします。


こうなってくると居ますね、味のある人。
床に寝ちゃって起きない人を見つけた時は、あまりにも腹がたったので結構な力でトーキックしておきました。
いや、その車輌の皆さんの気持ちの代弁です。代キックですね。みんなすっきりした顔してましたし。
いいことをしたなと自負しております。



そしてどうでしょう、このイヤホン率の高さ。
八割いってるんじゃないでしょうか?
そんなに音楽が皆さんの生活の根底を支えているなんて。。。。


だったらもっと素敵な曲が世の中に蔓延してもいいんじゃないの!コラァー



しかしやっぱり一番気になるのは、パンを電車内でガチ食いしているOLでもなく、ゲームに異常に集中しているおっさんでもなく、3回転以上は乗っているだろうホームレスでもなく、こんな人ではないだろうか・・・・・。




そう、駅前でいちゃいちゃしているカップルである。

映画のワンシーンのように、少し背の高い彼に背伸びをしながらしがみつく彼女。
ここで離れてしまうともう100年は会えないと言わんばかりに別れを惜しんでいる。

絡み付いた二人は人目を気にすることもない。
彼は彼女の少し割れたアゴを片手で下からクイッと持ち上げると、ブチュッー…。

明らかに馴れていないキスだ。
キザが滑稽に見える仕種。


しかしどうだろう、彼女はまんざらでもない様子。
なんならモジモジと内股になっている。



僕は駅構内にある定期券売り場まで向かっていた。

執拗に絡み合う二人。それは木とセミの関係。。。。。


その真夏のセミのようなカップルを発見して通り過ぎるまで約10秒。
こんな時僕は遠慮なくガン見しながら歩く事にしている。
なんなら少し威嚇もしながら。


その二人は今まで見てきたカップルの中でもトップクラスに不細工な男女だった。

絵にならない…


小学生なら間違いなく
うえー!キタネー!
と遠慮なく言っていただろう。




定期券を発行してもらいさっき通った道をまた引き返す。

まさかまだイチャイチャしてはないだろ……。
って、おい!さっきよりも大胆になっとるじゃないかキミ!
さっきまで腰周りに回していたおてては、腰からケツにフォースダウン!
その指はシンカーを投げる形に曲げられているではないか。ま、ま、まさか!お股に!?


こらー!お前らー!ご両親に謝れ!

しかしここにきてアゴが割れている彼女、満更でもない…
いや!幸せそうだ!


ってゆーか帰るの帰んないのどっち!

それはもうじーちゃんの残尿。まさかのボーナストラック。

終わりが長いのである。


渋谷に住んでいると本当に毎日セミカップルを見ない日はない。
統計もとれるくらい沢山の人数を見てきた。

みんな幸せそうである。




『幸せって人それぞれ形が違うものよ』



うん、僕もそう思ってます。


でもなんだろう。この感じ。


誰かを不快にしながら幸せを手にする感じ。

なんともさみしい幸せではないか。




なーんか納得いかないし、どっちかってーと、あのカップルには今後ものすごい不幸が訪れて欲しいと願っちまうね。実際。





つーか、そんなに悪い事してないのに、何故か異常に攻撃的な俺、肉食、男子的な、感じ、です、か?




とにかく、幼児的な行動や言動は、不快しか伴わないってことで。


おそらく、この短気な性格もしかり。




それはとても難しい問題ですね




よく聞く台詞である。


はて、どれくらい難しい問題かと少し聞いてみると、それはとても難しい問題であることが多い。


はぁ、まぁ色々ありますけれども、この件に関して僕が何か発言することによってアホなんじゃないだろうかと思われる前にこの話辞めにしません?

的な逃げ腰の台詞。


「ソレハトテモムズカシイモンダイデスネ」


発言するリスクを避けながらにして、ちょっとした優しさと知的な雰囲気を残して去って行く魔法のような言葉。

僕は心から軽蔑したい。




理想論と呼ばれてしまうような思想を持って生きてきた男がいた。

俺だ。

いや、うそだ。


チェ・ゲバラだ。


気づけば僕の人生の半分以上も共にしてきている。


彼は南米、アルゼンチンで生まれ育ち、キューバでその命を賭け、ボリビアの地でその壮絶な人生に幕を閉じた類稀なる革命家であった。

最近は映画化もされ、この小さな端っこの島国の人たちにも注目されるようになってはきたが、はて皆様はご存知だろうか?


生前彼は大切な娘に、このように書いた手紙を送っている。





「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。」(ゲバラ日記参照)




この人が選んだ美しさはとてもリスキーな事だった。

何故ならとても難しいことだからだ。



人はそれぞれ物差しを持って生きている。

僕も短いながら、常に持ち歩き大切にしてきた。

こんな書き方をすると、ちょっと下ネタみたいでもある。

しかしその場合だと短くは無い。むしろ長い。と、背伸びをしたい。




自分のモノサシで図るなよ!


なんておじさんは言う。

しかし、他人のモノサシなんかで図れるほど人間は器用な生き物だろうか。


とりあえず僕には無理だ。


僕の美しいと思えるモノは、あなたが思っている美しいとは違う。

ここで大切なのは「違う」ということだ。

「劣っている」とは違う、「異なる」ということ。


ちなみに僕は常に「かっこいい」にズームして生きてきた。



かっこいい男




それは次第に形を変えていったが、所謂「かっこいい」には変わりは無い。



容姿がかっこいい

考えがかっこいい

かっこ悪いところがかっこいい

損しているところがかっこいい

得しているところがかっこいい

こだわっているところがかっこいい

こだわらないところがかっこいい

いじめはかっこ悪い

カッコーはかっこいい

かわいじゅんいちはかっこわるい

乾いてるから今は無理

無理を承知で頼んでます

だから無理だって言ってんじゃん

そんなに嫌がらなくてもいいんじゃない

もう眠いからほっといてよ

こんな状態で寝れるかよ

・・・・・・


かっこいい、かっこいい、かっこいい





何がかっこいいのか。。。。。。。

本当にそればかりを未だに考えている。


恐らく、というか間違いなくコレもまた僕のモノサシである。


人は自分に都合の良いモノサシと都合の悪いモノサシを交互に引き出して生きているのではないだろうか。

ゲバラは美しいという、最上級の言葉を使ったが、僕で言うかっこいいではないのだろうか。


その二つの言葉の違いや内容に甲乙つけるのは、やはり先ほどの説からいくと「異なる」の部類に入るのだから誤った考えなのだろう。



うむ。しかしここにきてそうなのだろうか。。。。。。



以前ここのブログにも書いた(2009.12.02 武者切れ切れで候 参照)ショパンの話しのように、そーゆー問題でもないかも知れないのも事実。


いやー、こればっかりはとても難しい問題ですね。いやはや、困りました。。。。。。


 視力の数字を最初から決め直したい





こう思うようになったのは、ブリーフ一丁で身体測定していた小学2年生の夏のことでした。


淡く水玉模様に染まった、少しイエローなブリーフを恥ずかしいと思いながらも、俺の視力のすごさは「2.0」じゃ表現しきれてねーと密かに思って泣いていたんです。


「最近見えなくなってきて、視力測ったんですよ。そしたら0.04って言われてー。」


んー・・・・・・、解りにくっ!!


どーゆーことっ?それってどーゆーことっ?


絶対おかしいでしょ。

0,04。果たして、こんな中途半端な単位があるのかも怪しいけど、絶対にもっと良い表記があるはずだ。



と、つまりは「100スタート」で全部解決。


「俺さー、両目とも80なんだよねー!見えないものなんて無いって感じー。」

「私ガチで10以下なんですけどー!って感じー、ってゆーかー。的なー。」

「俺なんか200いってるもんねー!合わせて400だしー、マヂ見えすぎて元素記号見えたりもするしー、いりこだしー。」



と、若者の会話がより解りやすく、うざくなります。



他にも、



「東京ドーム150個分!」



これまたよく解りません。

東京ドームの広さも解らなければ、比較対照が間違っているんじゃないかとも思える言い回し。

そんな表現アリだったら、


「アカギケンタロウ、28歳、身長・・・・アリ2600匹相当、体重・・・・ベスト体重」


とかも、OKって事になりかねません。


つまり優しくないってことですね。


みんなホントにもっと僕に優しくした方がいいですよ。




って感じで今日はおしまい!

また!