民主主義的な強度に欠けた日本は、
すでに或る虚無のなかに取り込まれているのではないか。
無感覚な上っ面な、それでいてやたら享楽的な、国を愛する態度である。
ブレグジットでもめてゐるイギリスは、国賓のトランプ氏の訪英に、
20万人のデモでもって盛大に歓迎した。
彼は招かれざる客なのか。
日露戦争の勝利に世の中が浮かれているころ、
熊本から上京する汽車の中で三四郎は教師の広田先生に会う。
三四郎は先生に「これから日本はだんだん発展するでしょう」と云ふと、
先生は一言「滅びるね」とすまして云った。
同じようなことを三島由紀夫は
「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、
或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」(『産経新聞』昭和45年7月7日付)
と予言めいて残してゐる。
11/25市ヶ谷自衛隊駐屯地で「自衛隊の諸君」と声も切れ切れに演説、
クーデターの蜂起を促したが、後、割腹自殺をした。
1970,10/21には「国際反戦デー」があって、
デモ隊の一部は新宿の駅舎から線路を走って逃げた。
いわゆる“新宿騒乱”でこのころから学生を含むデモは次第に鎮静化していった。
敗戦がこの国の戦後の形を作り出してゐる。
「戦後空間は敗戦によりつくられた世界なのです」(猪瀬直樹)。
長いことアメリカに従属して主体性を欠いた日本は、
平成の長いトンネルの中でさらに内向きに、
無関心や、無気力、虚無を育てて来たのではないか。
バブルがはじけて就職氷河期が始まった。
異常なオウムのサリン地下鉄事件は1995,3月だ。
政府の発表ではいわゆる“引きこもり”の人口は40~65歳で推定61万人、
と云ふことだった。
働かない、家に引きこもるは、究極の保護主義であり、
家族のあり様は千差万別で“必ずしも”と前提するが、
自らの軟禁状態は家の中と身裡に暗いぽっかりとした空虚を生み出すに違いない。
立て続けに起きる幼児殺しなどはつかみどころがない虚無がなせる業だ。
世代、血縁、共同体などの連続性やサークルが断たれている。
歴史とはある連続性のことであって、
こうして中間層が次々にごっそりと抜けてゆくことで、
ますます民主主義はその危機をあらわにして行く。
倉石智證