日米は100%一致───

のはずが、

4/17「トランプ大統領の勇気を称賛したい」

トランプ大統領は、米朝会談へ転回したのだ。

 

 

かのやうに安倍首相は「米国一辺倒」、トランプ大統領に忖度し、

そして日本ではこのやうに、内閣府と官僚が安倍首相に忖度を重ねてゐる。

 

 

戦後レジームからの脱却、と云いつつ、一向に日本の米国への隷従関係は変わらない。

憲法論議が盛んだけれど、憲法変えたって、大人たちはよくならんね。

道徳を教科書化したって、お国のリーダーたちが嘘ばっかりついているのだから、

いつか子供たちにどういう風な申し開きをするつもりなんだらうか。

 

そして野党の皆さんはなんとか国会で手柄を上げやうと躍起になっている。

与党の過失に対しての追及のパフォーマンスが目立てば目立つほどいいわけだ。

安倍首相は"国難突破"なんて大仰なセリフで問題の核心をうやむやにして

選挙に大勝したわけだが、阿漕なやり方に国民はすっかり騙された形だ。

しかしやはり野党が存在感を確かなものに出来ないでいることがいの一番の問題なのだろう。

 

「1年もかけてこんな問題をやってる場合じゃないよね」

与党も野党もお互いにそろそろかうしたことにうんざりし始めている。

与党は虚偽、隠ぺい、破棄で「記録と、記憶」を棚上げにし逃げ切りを図ろうとする。

野党は、そんなバカなことをと正義を振りかざして追及の手を繰り出す。

そんなことをしているうちに内閣も、国会も漂流し始め、

我々国民はそのメルトダウンを眼の辺りにしてゐる。

 

さて民主主義と云ふ土壌(畑)が荒れて腐りかけているのに、

その畑に何を植えようか、と云ふ議論は危ういのかもしれないが、

日本には喫緊の問題が連なってゐる。

土壌改良にはどうしたらいいのか。

内閣や国会の呆れるくらいな生産性の低さ───、

この際議員に与えられている「国政調査権」を司法にも与えたらどうだろうか。

憲法を変えるならここだ。

強大な権限を独立性を持たせて司法に確保する

最初の段階では議員さんの各個攻撃に任せるが、

ある段階からその調査は司法に移管する。

司法はその都度開かれたものになり、

且つメディアにも公平に進捗度を公開しなければならない。

司法は必要なら、その必要性に応じて、

国会議員、また民間人を召喚する権限を持つ。

意気軒昂になったり、慨嘆したり、鬼の首を取ったごときの様のエネルギーは、

一挙に正しく政策審議に向かはなければならない。

いつまでもだらだらと過失の追及ばかりに汗水をたらしていても仕様がない。

▲税収を歳出が易々と超えてゆく。"25年問題"どころではない。

国の将来の形とは憲法改正ばかりにあるわけではない。

国の将来の形は、国の予算の「カタチ」にこそあるはずだ

 

日本は分かり切っていたことだが、

現今はある意味では社会保障不況に落ち込んでゐる。

社会保障費は政策予算のおよそ30%を超えて、

今年度の社会保障費Totではおよそ121兆円といふ巨額な額となった。

 

2018年度=121兆円

2025年度=140兆円(団塊の世代が)

2040年度=190兆円(団塊ジュニアたちが)

▲社会保障費の伸び率は年2~3%

 

そしてこの日の日経の同じページでは───

▲経済成長率は1~1.2%と経済学者等みなさんの推測は。

 

しかもこの成長率は日本国内の自律によるものではなく、

もっぱらアジアの成長の恩恵によるものだと云ふ。

 

「働き方改革」法案のみが生産性を上げるわけではないが、

国家や内閣の「働き方改革」を先にした方がいいのだ。

政治のごたごたはスキャンダル、週刊誌的にせずに、

国政調査権」は引き続き中立的で厳正な司法の権限に移管する。

国会議員の皆さんはきれいさっぱりと過去の過失ばかりを追いかけるのではなく、

未来の希望をしっかりと討議、審議すると云ふ、議会制民主主義の当たり前に還る。

 

日本をとても厭な空気が覆ってゐる。

戦前の日本もさうだが、個々のそれぞれの忖度は罪にもならず法律罰ではないが、

忖度の連鎖は責任の所在を曖昧にしたまま、ある種の空気感を作り出してゆくのだ。

ハンナ・アーレントはアイヒマンの裁判を傍聴して、

彼並びに彼に付随する膨大な大衆に対して、

それを「悪の凡庸」と名付けた。

なぜ戦争へと突入していったのだ・・・・・・。

「あゝ、それはわたしではない」「わたしは知らなかった。私は手助けなんかしなかった」

「あゝ、それはある種の空気感がね」と賢い人たちは答える。

 

悪の凡庸はそしてそれは、あらゆる欲望によって、

たとえば地位に対してだったり、金銭に対してだったり、或いは極端に云って愛によってさへ、

云い訳され、隠されるのだ。

 

同じことが連鎖する。

「試合出さぬ」、「日本代表ダメ」。

 

二十歳の青年は───

わたしがここにゐるのは誠実を示すためです」。

内田監督を安倍首相に、井上コーチを佐川、柳瀬氏に置き換えてみると分かり易い。

内田監督(安倍首相)は「指示していない、云っていない」と云ひ、

井上コーチ(佐川、柳瀬)は「監督(総理)からの指示はありませんでした」と云ふ。

そして、そもそも"涙"とはどう云ふものか。

この試合時の青年の涙は口惜し涙などではなく、純真にして純粋な涙だ。

それなのに大人たちはもはや泣かない。

硬直した感性はもはや泣くに泣けないのだ。

 

話しは飛躍するが、どうも体育会系団体には組織に対する絶対的崇拝があり、

日本会議に連なる古い精神性ばかりに固執する妙な体質が巣くっているのではないか。

アーレントではないが、己のその時々の行動におけるそのひとつひとつの動機を疑ってみる

地位に対する執着、金銭欲、組織に対する忠誠心、そして怯懦・・・。

 

日本はアメリカに忖度し、

そのトランプ大統領はキリスト教福音派に気を使ってゐる。

キリスト教福音派はイスラエルを正当化し、

世界はカナンの地から支配されるべきだとまともに考えてゐる。

空気は感染するのである。

 

倉石智證