選挙戦を通じてあらゆる事柄は生産性を念頭に論じられなければならない。国家とか国家間に於ける生産性とは必ず平和であることが前提となる。我々が憲法9条を得てから「あゝ、もう戦争はしなくてもいいのだ」とどのくらい気持ちが明るく励まされたものか。常に抑圧する国家と云ふ対象が頭上からなくなって列島の津々浦々まで風通しが良くなった。国民はいまさらながら自由であることを実感したのだ。そして、猖獗する労働運動などもあったが、右も左も自由であるからこそ万機公論し、経済活動ではイノベーションが解き放たれたやうに至る所に芽吹き始めたのだ。野球であれ、相撲であれ、歌も映画も文筆も、文化活動はすぐに反応する。
保安隊が自衛隊に改組されたのが1954,7,1のことであった。前年の7/27朝鮮半島は休戦協定を結ばれ、アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース」と国連で演説したのはその年の12/8になる。裏腹に翌年1954,3/1ビキニ環礁で米国による水爆実験があり、白い貝殻の粉が死の灰となって第五福竜丸に降り注いだ。1954年の3~5月に同環礁周辺で行われた水爆実験の影響で放射能汚染が見つかった日本漁船は、分かってゐるだけで850隻もあると云ふことだ。半年後に亡くなったヒバクシャ久保山愛吉さんは口をつぐむ。国家の影が頭上を覆ったからだ。
1955年、アメリカの世界秩序───
1955,6/6「ワルシャワ条約機構」発効。1949,4/4のNATOに対抗する。
1955,7沖縄土地接収
1955,7/29オネストジョン日本に配備。
■大塚睦「オネスト・ジョン」ミサイルに脚が生え、ユーモラスに踊る。
見えない不安と社会の欺瞞。
1955,11/14「日米原子力協定」結ばれる。米国による日本の非核化と原子力の平和利用と。
1955,12/19「原子力基本法」原子力政策の憲法とも云へる基本法は、原子力の平和利用を旗印に「民主、自主、公開」の原則を掲げてゐる。
1955~60年代「砂川闘争」(米軍の立川基地拡張に対して)住民闘争
■砂川闘争
■1959,12最高裁長官田中耕太郎は「一審の無罪の判決を棄却する」。
我々の平和が戦後どのやうに維持されたかは、またもや甲論乙駁、憲法9条があったからとか、いや日米同盟による核の傘があったからだだとか、神話のやうな論争になりがちだが、傾斜生産、「吉田ドクトリン」が実行され、岸信介の安保改定により片務条約が双務条約になり、その後を引き継いだ池田内閣が所得倍増を謳って、1968にはGDPで米国に次いで世界2位とと云ふ驚異的な経済的発展を遂げることになったのはほぼ唯物的な事実である。
一応リベラル派と云はれてゐる鳩山一郎が1956,12「日ソ共同宣言」にまでこぎ付けた。しかし同盟国の国防長官ダレスが"恐喝"する。北方領土が4島一括返還でなければ沖縄の返還もあり得ないと、将来にわたっての難癖をつけたのだ。石橋湛山は中国も含めての交流、交易を押し進めやうとした。しかし、病を得て、岸信介が首班を引き継ぐことになった。「でありせば」と云ふのは歴史の常であるが、日ソが平和条約を締結で来ていたら歯舞・色丹は少なくとも今ごろ日本の領土になってゐたかもしれない。戦前「小日本主義」を唱えていた石橋湛山が病を得ることが無ければ中国との国交回復ももっと早い段階に実現できていたかもしれない。
キューバ危機が1962に勃発する。その衝撃はすぐに日本に及び、米軍の沖縄基地では核装備のシステムがすべて"ON"に切り替えられた。1954ディエンビエンフーの戦いの後、フランスを引き継いで米国がベトナムに侵出する。1955には"オネストジョン"が日本に配備された。これは核兵器ではないと云いつつ、何時でも核爆弾を仕込めるものでまったくどこが"正直者"なのかさっぱり分からない。人の国に、まったく悪い冗談のやうにさへ思へる。
1962,10キューバ危機の頃と「沖縄と核」(17,9/10TV)───
■1969,11/19佐藤・ニクソン"沖縄密約"・・・「核抜き本土並み」
■1960,6/19「安保改定」安保騒動
横暴、権力専横腐敗の李承晩に対してクーデター(1961,5/16)を起こしたのは朴正煕パクチョンヒだ。満州国(新京陸軍士官学校)で日本の陸軍に学んだ経緯がある。1961当時南は、ソ連の支援を受けた38度線の向こうの北朝鮮の金日成キムイルソンの計画経済に後れを取ってゐた。南の韓国の窮状は越年も出来ないのではと眼を覆うものがあった。そして、朴正煕の部下であった金鍾泌キムジョンピルが米国には支援を求めらないと日本に接触を求めて来る。池田内閣の時代であった。1961,11/11総理官邸で行われた晩餐会で朴正煕は岸信介に初めて会う。統制経済「国家社会主義」は北一輝の流れを汲むものであるが、当時革新官僚として国家改造にずば抜けた手腕を発揮した岸信介に満州と云ふ接点で二人は出会い、朴正煕は岸信介から国家建設のアドバイスを受けたとされる。大平外相と金鍾泌の身を揉むやうなやり取りが続けられ、無償3億㌦、有償2億㌦、民間3億㌦で国交正常化交渉への道筋がつけられた。ちなみに合計約8億㌦は、当時の大韓民国の予算のおよそ=2.3倍であるとのことだった。
1965,6/22お互いの請求権を取り下げての"完全かつ最終的に"「日韓基本条約」の合意がなされた。日本の民間の支援も背中を押し"漢江ハンガンの奇跡"が成し遂げられてゆく。朝鮮戦争で壊滅的打撃をうけた大韓民国(韓国)は、1960年代後半以降、急速な復興および経済成長と民主化を遂げ、1960年代前半、国内総生産 (GDP) で、北朝鮮を下回っていた韓国は1970年ころには北朝鮮を追い抜いた。しかし、その後その朴正煕も独裁への道を辿ってゆく。
■1965,2/7~「北爆」開始。
米国は1964,8/2トンキン湾事件を誘導し、先制攻撃を口実に自衛の為と集団的自衛権を拡大適用させた。この年の10/16中国が核実験を行う。あろうことか1964,12,7カーチス・ルメイが勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。それは第1次佐藤内閣の閣議で決定された。「航空自衛隊の設立に貢献した」という理由の勲章だったが、このカーチス・ルメイこそ1945,3/10の東京大空襲で無差別爆撃を指揮し、無慮10万人の市民を焼き殺した張本人である。「石器時代に戻してやる」───。ジョン・F・ケネディ政権時代の1960年から本格化したベトナム戦争では、空軍参謀総長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語し北爆を推進した。リンドン・B・ジョンソン政権下で1965年2月7日から北爆が開始された。たちまちベトナム戦争は泥沼化し、米国の双子の赤字は雪だるまのやうに膨れ上がって行く。英国が米国に金の交換を云い出し、窮してゆく米国はとうとう戦後のブレトンウッド体制の責任を放棄、金・ドルの交換停止「ニクソンショック」(1971,8/15)と云ふことになった。
結局は西側のルール、アメリカによる世界秩序とは何であるのだらうか。1929,10,24"暗黒の木曜日"「Wall Street Crash」株価の壊滅的な下落は、米国に信用秩序の崩壊と大失業時代をもたらし、経済大国米国の不況はたちまち世界に伝播することとなり、為替引き下げ競争と経済のブロック化は、第2次世界大戦への引き金となって行った。
1971,8/15のニクソンショックも世界の金融システムは地べたの「金」からの拘束から逃れて、マネーや為替などが自由に売買される商品へとなって行くことを促すことになる。信用取引が盛んになり、レバレッジに対しての金融派生商品も流通するやうになり、マネーの流通市場はいよいよ複雑化し、尻尾が本体を振り回すやうな、悪しき金融資本市場が実態に対して翳のやうに膨らんでゆく。1999,11/12グラムリーチ・ブライリー法で証券と銀行の垣根が取り払われ、2000年の「ITショック」もあって、グリーンスパンは低金利を急ぎマネーは世界に溢れ、ブッシュJrの住宅減税政策もあって、サブプライムな住宅証券化商品は実態を隠されたままミックスアップされて世界中に売り捌かれ、しかし、売り上がったものは必ずどこかで破裂する。2008,9/15のリーマンショックは世界を再び経済の大停滞へと落とし込んだ。
倉石智證
アメリカは世界中で物議をかもす。米国とは距離を取るべきだ。アメリカによる世界秩序とは、必ずしも日本の国益に合致しない。そればかりか大いにそれによって、進路妨害されていることも多いと考えるべきだ。