戦争に対する"抑止論"ではなく、絶対に戦争を回避すると云ふことのために、

そして歴史を前に進めるために───

公約は国内だけでなく、韓国、北朝鮮、中国、米ロに向かっても。

「圧力と対話」ではなく「圧力と『国交正常化』」

『国交正常化』はオブザーバーとして文在寅大統領を伴う。

ミサイルと拉致は別項目に置く。

日本は朝鮮半島の植民地主義への反省と、北朝鮮との『国交正常化』へ注力する。

植民地主義への反省は韓国(「慰安婦問題」)に向けてのものでもある。

とりあえず公約としてアナウンスすることだ。

もろもろの条件やプロセスは以後の問題になる。

他に安全保障としての布石、通貨元への参加をもっと明確に打ち出すこと。

 

条約交渉は当該相手国が困ってゐる時に直截的に飛び込んでゆくのが常套だ。

1956,12,12「日ソ共同宣言」ダレス国務長官の横やり"恐喝"。

1965,6,22「日韓国交正常化」

有償、無償、民間の合計8億㌦は当時の韓国の国家予算の=2.3倍

1972,9,29「日中共同声明」ソ連との亀裂、文化革命による疲弊。

キッシンジャー「裏切り者の中でもジャップは最悪だ」───

米中が正常化にこぎつけたのは79年1月。日本は結局、米国よりずっと早かった。

「裏切り者の中でもジャップは最悪だ」。解禁された米公文書によると、田中訪中の1カ月前、キッシンジャー氏は部内協議で日本人への蔑称を使い、こういらだちを爆発させた。

田中角栄はロッキードで挙げられる。

1998,4「川奈会談」橋本・エリツィン。

急激な民主化によってロシアは経済不況と混迷に陥ってゐた。

北方四島はこのとき一番日本に近づいていた。

ぼくはもう人類は試されてゐるんだと思うんだ。今回のICANのノーベル平和賞の受賞や、国連の核禁止条約採択なども含めて、ノーベル委員会や国連のノーブレスオブリージュな人たちが片方にゐて、つまり一方には世界に関する理性脳みたいのが確実にあって、しかし一方には北朝鮮をはじめ、アサド、トランプ、プーチン、習近平、安倍晋三、エルドアンなどの例えば人間の脳の古い層の大脳辺縁系に属する、いわゆる感覚脳で、常に怒りや、不安や、恐怖の感情にさらされてゐる指導者たちの存在があると思うんだ。メルケルさんはもちろん国家理性を保っていると思ふ。しかし、スー・チーさんやドゥテルテはどうか。国家を理性に引き戻そうとする民衆の力があると思へば、突然米国や、英国のやうに、大衆がある気分に投入されて、大きなうねりの中で扁桃体そのものになって行ってしまう例もあるようだ。国家の定義や、民主主義の一応基礎とされる選挙の多数決主義といふものも吟味し直されなければならないが、「ナチスのあの手を学べばいいぢゃないか」───多数決がもたらす民主主義の陥穽、ワイマールがある日気が付いたらナチスに変貌していたなどと云ふ、在ってはならないとっても虚無的なものへと世界は漂流し始めているのではないかと疑義する。

 

立憲民主党はリベラルを標榜してゐる。さて、立憲とは文字通り憲法によって立つ、つまり憲法が国家の上に立つわけだ。われわれには「9条」があって、戦争のことで云へばおよそ国家間の戦争は国民一人によって遂行されることはあり得ないわけで、さらにそれを突き詰めて云へば、過去の戦争は必然でも不可避なことでもなかったはずである。人間の自由意志によって、必ず、それも国家と云ふ形態をもって戦争へと突入する。そうした国家権力を制約するのが立憲主義の目的で、人類があんまりにも本然的自由を冀こいねがうあまり、それは長い年月をかけて、膨大な血と涙の果てに、やっとたどり着いた人類の普遍的価値を顕現したものだ。そしてリベラルとは個人の尊厳のことで、とことんダイバーシティ―とは肌の色、国、宗教、民族などによって差別されることがない、誰しもが社会の中で出来得る限りのその個人にふさわしいポジションが得られる、そういう寛容さを持った社会をわれわれはリベラルな社会と呼んでゐる。国民を個人として敬へ、が人権主義で、公の秩序や、公益を優先するのが自民党憲法であって、個人ではなく全体をと云ふ国家国権主義的なテーゼは、まかり間違えば戦前の全体主義に陥る危険性を孕んでゐる。

 

自公政権のやうに平和のために膨大な戦争を積み立てるわけにはいかない。立憲民主はあくまで平和主義で人権主義である。そして、その延長線上に原発フクシマや、沖縄辺野古の問題も横たわってゐるわけだが、選挙と云ふものは事実ムツカシイ現実であると云ふことが露呈されてゐる。民衆はもはやイデオロギーには投票しなくなったのである。"モリカケ問題"から、冒頭解散、それまでに至るもろもろの言論封殺、強行審議採決など、云いたいことは山ほどあるには違いないが、北朝鮮は矢継ぎ早にミサイルを撃って来るし、それを"国難"と自作自演し、なんとなく不安な空気にさらされた国民は、より一層の同調圧力に共同依存し、現状ではますます自公、乃至は希望の党が有利な情勢で衆院選は進展してゐると云ふわけだ。危機を演出し、不安を煽れば煽るほど、では、この国難を守れるのは何處の党ですかと云ふことで、この危機を守り国民の生命と財産を守るのは自公政権しかないではありませんかと、ますます自陣にポイントが加算されると云ふ構図である。

 

国民の今在る自由とは国家の主権により担保されてゐる、と云ふのが安倍首相の公言で、自民党の憲法案でも、公と公益がまず優先され、延長線上に「家」があり、更にその延長線上に天皇を元首にと云ふ天壌無窮の思想が深く入り込んでおり、遡れば我が国は神の国に至るなどと云ふそんな元首相の言にもなる。そして、それらを補完するのが道徳の教科化であり、兄弟仲良くして父母を敬えと云ふ教育勅語を必ずしも否定しないと云ふ立ち位置になった。国家主義は秩序を重んじ、"国"と云ふベクトルを強靭化することで現在の資本主義の行き過ぎや、グローバル化による人々の人心の風化や、いじめ、格差にまで立ち向かうかのやうだ。たしかに我々が置かれてゐるのはもうとっくに始まってゐる新しい「唯物史観」そのものであり、利潤や効率化のもと、経済合理は或いはコンビニなどに結実し、どんな田舎でも24時間耿耿と灯りが付いてゐると云ふ不思議な光景が至る所に現出してゐる。

 

有難いと云ふべきか、別な意味での価値破壊なのか、しかし、下部構造が明らかに上部構造を揺るがせ、それが健康健全であるとか、正義であるとかはいつも置き去りにされた。構造主義ではないが様々なものが連関し合って、人間の心理はそれにより新たに地平され(「アウフヘーベン」)、転出されてゆく。ついでに付け加えれば、コンビニ的人口の多くは、無党派層に連なる傾向が顕著(これらのことも含めて「唯物史観」と云ふ)とのことだ。しかし、グローバル化とはゲルマン民族大移動と同じことで、歴史の不可逆性のことで不可避であり、そのこと自体をむろん、いいか悪いかと言いくるめることなど出来ない相談だ。選挙では漠然と覆い隠しているが、社会のこういうことから漏れ来る無数の心象風景、そして"破れ"などをかなり強引に象徴と云ふ天皇を戴くことでさらに緊密に統合して行こうとしてゐるのが自公政権と云ってもいいだらう。

 

あれよあれよと云ふ間に「憲法論議」が選挙の争点のトップに躍り出て来た。しかし、これこそが安倍晋三の望んでいたことではないだらうか。立憲民主党ばかりではなく多くの国民も選択肢を極端に狭められた今、はたしてしてやられたと云ふ思いを強くする。「憲法には触れない方がいい」「不磨の大典」と云ふやうな議員や国民たちがまるで非国民の方へと追いやられていく。国中がある権威の元に忖度し始めた(議員と云ふ就職活動)。たしかに忖度とは決して法律違反ではないが、しかし、法律違反にならない物事が戦前でも社会にある空気感を作って行き、それがあるとき気が付いたら「国家総動員法」などと云うものになって行った。私たちの前頭葉は今出る幕を混乱させられ、閉塞感や不安感の中で、大脳辺縁系の曇暈の中で思考停止に点滅してゐる。「憲法9条」とは国家と国民を巡る関係性の論理のことで、"人を殺さず"と云ふのは至高の文明論でさへある。然るにそれを安倍内閣は解釈改憲により「集団的自衛権行使容認」と云ふうにすり替えた。彼のアーミテージ曰く、「今までは日米安保、日米協力強化の前に必ず憲法9条が立ちはだかった」「これで世界中で自衛隊が米軍のために命を懸けることを約束した」───。アーミテージは正直者でこれが本筋で日米同盟強化とは米国の国益のことを云ふのである。

 

そこで立憲民主党も、過去の野党になった民主党時代、その後の民進党時代も含めて、あまりにも反対のための反対、ストップ、ザ自民党と云ふわけで、今回もそうだが、反安保、消費税凍結、反原発、反辺野古と云ふわけだが、では、その後で何をしてくれるのかなと云ふパッケージとなる商品が決定的にないのがこれも致命的なことである。今日ニュースで枝野さんが「日米同盟を基軸に」外交的手段で朝鮮半島北朝鮮問題の解決を図っていく、などと云ふことを述べられたが、僕が云ふ前頭葉の思考停止とはそのことを云ふのである。