「我が国の自衛隊は、武力を有する実力組織であり、これを以って専守防衛に徹底する」(「3項」倉石提案)

1954,7/1自衛隊創立

従来の憲法解釈で認めてきた武力行使は、自国を守るためにやむを得ない場合だけ。具体的には(1)日本への急迫不正の侵害がある(2)ほかに適当な手段がない(3)必要最小限度の実力行使にとどめる――との3要件を課してきた。

 

2015,9/19「安全保障関連法案」が成立する。

目的は日米安保を基軸とした「抑止論」である。

国民の生命と自由、安全を切れ目なく守る。

"不憫だ"───

吉田茂首相は「むしろ日陰者である方が」と云ったものだが安倍首相はどうしても「日の当たる方へ」明文化したいらしい。『宣誓書』「我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守じゅんしゅし……事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」

 

集団的自衛権の行使容認では憲法改正の手続きを避け、解釈変更を押し通しながら、いまになって「改正案を示している」「明文改憲」と胸を張り、議論に値するとずいぶんと都合のいい話に切り込んで来た。5/29の日経新聞では安倍首相の云ふ1項、2項を残したままの加憲、「自衛隊を明記」するに51%の賛成が示されてゐる。衆参ともに3分の2を維持し、いよいよ"今でしょ"と云ふわけだ。特に若い人たちの支持が顕著のやうに思へる。敗戦から70年以上も過ぎて、ますます戦争の悲惨さや不条理、理不尽、無念、飢餓等のリアルさから遠ざかってゐると云ふ時代感覚もあるのだらう。終戦後から60年安保のいわゆるイデオロギーの時代のあの猖獗した世相との差を感じざるを得ない。自衛隊にさらなる要件を求めるのか、或いは専守防衛と書き込むことでこれ以上の"解釈"の余地をなくすべきなのか。国民に定着し戦後ずっと守られて来た平和憲法が崩れ去ろうとしてゐる。普通の国になるのか。決定的な日本のアイデンティティを無くしてしまうのか、歴史的転換点に立ってゐる。

 

(2項)「前項の目的を達するためIn order to accomplish the aim of the preceding paragraph───この一節を加えることで、日本は国際紛争を解決したり、侵略戦争を始めたりする手段になる戦力は持たないが、自衛手段までは否定しないと云ふ解釈の含みを持たせた。この修正は日本側からの提案で、草案作りに関わった芦田均の名を取り、「芦田修正」と呼ばれてゐる(16,8/15池上彰)。普通の国語教科書を読み込んで理解できる国民なら、ここから専守防衛を導き出せるのは容易なのではなからうか。そして自衛とは独立自尊のことであり、自身の武力(正当防衛)の概念も含まれ、武力は侵略等を目的とせず海を渡らない限りは戦力にはならないと云ふことである。しかし、今回はこの自衛の解釈の中に「存立危機=集団的自衛権」まで、無理無理持ち込まれてしまった。国家の存立を全うするためには他の国の"お助け"も必要になると云うわけである。集団的自衛権とはつまり同盟国が武力によって攻められてゐたら、自国がまだ攻められていない状態でも、武力行使を一体的に行う、と云ふことである。武力行使の一体がそのまんま「戦争行為」に突入する。

 

解釈の余地をなくすべきだ、と云ふ意見では、西修・駒澤大学名誉教授は16,5/3日経新聞で「2項改め、自衛のための戦力保持を明記」すべきだ、とより明確である。我が国の周辺環境が変わった。駐留米軍なくして我が国の安全をどう担保できるのだ、と云ふのだ。ところが自衛隊が創設される少し前、1954,5/3読売新聞は社説で全く同じようなことを述べてゐる。いわゆる「国際環境が根本的に変わったのだから」と。

安倍首相の今回の加憲に対して自民党では「何もできない自衛隊を永遠化するという、空恐ろしい断念宣言」と云ふ狂騒めいた意見まで飛び出た。(駒野剛・朝日新聞編集委員)「自衛隊は必要最小限の武力で専守防衛にに専念する組織」と朝日新聞らしい。至極もっともだと思へるのだが、加憲を最初に持ち出した当時公明党代表の太田昭宏さんは党大会で「自衛のための必要最小限度の実力組織として(2項は)自衛隊を保持することを妨げるものでない」と表明した(2006,9/30)。韓国外務省は16,3/29「安全保障関連法」施行に当たって、「日本は戦後一貫して維持して来た平和憲法の精神を維持し、地域の平和と安全に寄与する透明な形で推進すべきだ」とコメントした。

 

憲法9条と云へば直截的に戦争を思い出させる。それは戦争とはそして決して過去のものなどではなく、自分たちとは完全に地続きのものであると云ふことからだらう。世界の今が刻々と未来の私に繋がっている。日本の過去が、自分の生まれる前の、自分とは関係のない遠い昔のことではなく、今もなお同じ風土と文化の中に生きる自分と地続きのものであるとの問いを絶えず発し続けてゐるのだ。カントの「永遠の平和のために」以降、理性が創り出す社会はそれでも絶えず不安定であるから憲法のようなものをつくって少しでも安定させようと努めて来たに違いない。憲法9条は人権、平和、権力の在り方を規定する。9条こそが「人権」の規範、基礎=人を殺さない、死なないを掲げて来たのだ。国の交戦権を否定する。「人を殺さない」「死なない」───これこそすぐれて文明論ではないか。江戸城が無血開城された。文明論とは深い教養論でもある。

 

■金正恩体制2011年末より53発のミサイル実験。

威嚇の応酬───

17,4/14米国はアフガンで「MOAB」大規模爆弾で北朝鮮に圧力を。

17,5/31アフガニスタン、カブールで大規模爆発、90死亡。タリバーンは犯行を否定。地元テレビ局は「ISが犯行声明を出した」と報じた。

■カールビンソンが帰って行く。

■抑止は機能しなかったと見るべきだらう。

■17,5,28(1917駆逐艦「榊(さかき)」(地中海シーレーン「日英同盟」)60人旧日本海軍戦没者墓地を訪れた安倍首相(中央)と昭恵夫人(右)=ロイター)17,5,28日経

マルタ島にとこしへに眠る勇士達。勇気と誇りの武士道的美談であるるのかどうかは分からない。地中海にてイギリス等味方のシーレーンを守るための任務を終え帰還中、敵の魚雷を受け艦首切断、艦長・上原太一中佐以下59名が戦死。

 

甚だしい勘違いと云ふべきだらう。訪れるならひっそりと訪うべきだ。安倍首相は2015,9/19の安保関連法で「周辺事態」を外した。また米艦防護などのやうに武力の一体行使もすれすれである。武器等弾薬の供与も米国ばかりではなく他国とも条約を結び始めた。周辺事態を外された艦船は米国と共に地球の裏側まで出かけることが可能になった。死ぬ確立がぐんと上がったのである。憲法9条は「死ぬな」「コロスナ」と云ってゐるのである。憲法9条は国民を国と云ふ権力から守るために在る。すなわち自衛隊員一人びとりも国民であり、その国民たちに外に出て行ってまで人を殺すな、また自分では死んではいけない、と口を酸っぱくして云ってゐる。危機的前夜などと煽りまくってはいけない。憲法をつくる目的「たった一人でも死なせてはいけない」ことにある。特別艦隊の「榊」は日英同盟のために地中海に出て、魚雷を受け、艦長以下59名が戦死した。

憲法前文の「恒久の平和を念願し・・・国際社会で名誉ある地位を占めたいと思う」は憲法9条とは別に取り扱うべきだ。自衛隊による邦人救出やPKOなどでは自衛隊員は国家と別な契約を結ぶ必要があるのは当然のことである。

 

戦前は「自衛のため」と云ってどんどん国外へ出て行って戦争をして、そして日本は大負けに負けた。多くの信じられないくらいの人命が失われたのだ。自衛(個別的=「国益」)はすぐに集団的自衛権に飛びつく。米国はベトナムでも、イラクでも、そして今般のシリアへのミサイル爆撃でもその論法を持ち出した。米国に追従する安倍政権は危なっかしくていけない

「我が国の自衛隊は、武力を有する実力組織であり、これを以って専守防衛に徹底する」

もはや解釈の余地のない。

是非一考をお願いしたい。

 

因みに日英同盟は

1902,1,30締結。

1921,12,13「四カ国条約」(ワシントン条約)で廃棄が決定、

1923年8,17に同盟が失効した。

1848英首相テンプル(国益)

我々には永遠の同盟国も永遠の敵もいない。あるのは永遠の国益だけだ」。

英国の首相を務めたヘンリー・テンプル(第3代パーマストン子爵)

 

倉石智證