兎に角「9条改憲」で当選したわけではないのですから、勝手に憲法に触るのは止めてください───。2012,12/26第二次安倍政権。投票率は=59.32%。それなのに安倍首相は突然のやうに憲法改正、それも「9条改憲」を云ひ始めた。国家や世界の将来に対して誰が責任を持てるのか。あるいはそして責任を持てるとはどう云ふことか。あなたは、あなた方はなぜリーダーと云ふ存在を不遜と云ふことさへもなく許されているのか。それなら冗談事でなくあらゆる要件や時間軸、地政学的をいっそAIに打ち込んで判断してもらった方が、人類史の不確実な蓋然性は可能な限り抑制的になるのではないか。なにしろ一瞬間に数万ページの諸所の出来事を将来に渡って読了してしまふといふのですから。
2011年末の金正恩体制になってからもうすでに53発のミサイルが虚空に向かって打ち放たれたと云ひます。なんと云ふそれこそ空しい努力なのでせう。しかし、かって日本がABCDラインによって追い詰められ、最終的に米国によって対日石油の全面輸出禁止が発動された1941,8/1を以って、これは侵略ではなくて自衛の戦争であると太平洋戦争へと臍ほぞを固めて行った軌跡のことを私は少し思い出します。
各国家はたった一人の人間と同じやうにかけがえのない人格を有する恰も法人格だと云ふのです。生命と自由と幸福の追求権を有する。従って国家が己の自存を懸けて戦うのは国家における最高の政治道徳である、とさへ云い募る人もいます。つまり、従ってこの点において云へば、現北朝鮮が必死になって世界史の中で取り繕っていることさへ、戦前の日本の世界に対しての動作と何ら変わることさへなく、決して褒められたことではありませんが、安倍首相などに云はれるほどに、国家的な罪科と云ふほどには断罪できないのではないかとさへ思へる時があります。国家はそれぞれが法人格であり、それぞれが自尊して自分自身を守る義務がある。安倍首相には、戦後レジーム(米国的システム)からの脱却、と云ふほどには、世界史の中における北朝鮮に対しての斟酌が感じられません。日本も戦前はあれほど米国に文句を付けられいじめられ、それは制裁を受けるほどに日本も阿漕あこぎだったのでせうが、ABCDラインで追い詰められ、いよいよ立ち行かなくなった。人も国家もはなから悪かったり、罪科に満ち満ちていたわけではないでせう。環境や地政学、それにちょっとした時間軸のずれによって、いい人だった人もあるとき突然、たとえば全く普通の外国人だった人物が、日本と云ふ条件の中で(米国でもフランスでもどこの国でもいいのですが)、ある日突然異質なものに目覚めてしまふと云ふやうな事柄もきっとあるには違いないのですから。
もっと前からのことではありますが、とにかく民主党政権もそうでしたが、2011末の金正恩政権からのミサイル発射53発に対して、その都度「断固として許しがたい」「毅然とした対応を」と繰り返しワンパターンに云ひつつ、「圧力」と云ひ「戦略的無視」と云ひ制裁を続けて来た。不作為的に世界はある国家が世界に対して織りなすその国家独特のイリュージョン造成に対して、共犯的に手を貸し続けて来たのではないかとさへ私は疑心します。国家はそもそもその生い立ちからして基本的に自由なのです。ただし世界的なと云ふ意味での「公共な福祉に反しない限り」でありますが。ではどのやうにしたらいいのでせう。
日本には「江戸城無血開城」と云ふのがあります。宮沢賢治は「コハガラナクテモイヽト」云ひます。マチス国防長官は拷問における水責めよりも、明らかに煙草やビールを勧めた方が効果的だと説明した。砲艦外交による安保ではなく、それこそ「安心」を与へる。武闘派があり条約派がある。真の文明とは、「山も川も荒らさず、村(=たとへば沖縄)を破らず、人を殺さない」と云ふことなのですから、理念、真実に向かって生きる覚悟を決めるならば、現憲法9条にこしたことはない。当たり前の事柄ながらお互いの国家が武器を厳格に自国に"元和偃武"するならば、あやしい武器商人のやうな振る舞いを収めるならば、世界はかなり平和的に安定するに決まっています。現憲法は世界に対してしたがって、人類の最先端を行ってゐると云ふことなのであって、我々日本人はそのことでは今更ながら誇りさへもつべきだと云へるのではないでせうか。
欧州における戦後70年を超える平和は、ます戦争物質を無くす(共同管理)ことから始まりました。極東における平和は、冷戦と云ふ危うい均衡の中で、米国の国益と云ふことで日米安保などを基軸にして実施されました。1ドル=360円と云ふのは米国による破格の扱いで日本の経済をキックしてくれたのは云ふまでもありませんが、それすらも米国が日本を反共の砦に、と云ふ自国の戦略的国益追及のための結果に過ぎないと云へばその通りの事です。日米安保は日本の憲法の上を行くがごとしで、沖縄に米軍基地が集中してゆきます。日本は米国による傘によって守られてゐる、などと云ひますが、そんなことではありません。すべて米国の先行する国益の結果に過ぎないのです。米国はベトナム戦争時には盛んに沖縄の基地から爆撃機をベトナムに向かって飛ばしました。あまつさへそのことでは米国は米国の個別的・集団的自衛権を持ち出しています。ひどい話です。ベトナム人の犠牲者は南北合わせて無辜の人達も含めておよそ150万人と殺されました。そして、その後紛争はポルポト、クメールルージュと続いてゆくことになるのです。
歴史をたどればインドシナに於けるフランスの植民地政策、ベトミンとの1954のディエンビェンフーの戦いまで遡ることになるのでせうが、それを米国が引き継ぐと云ふ形でベトナム戦争へと発展してゆきます。
太平洋戦争後アジア一帯には広範囲に於いて民族独立の戦いが湧き起こりました。植民地支配と云ふのはそもそも西洋の無理筋の価値観の延長です。資本主義、市場主義が国家権力と結託して他の民族を圧迫搾取、抑圧する。第2次大戦で勝利者側になったとは云へ、自国の財政もひっ迫し、フランスなどはインドシナで植民地政策もままならない。正しい意味でのマルクスの云ふ戦後の新しい唯物史観が敷衍し始めたのです。ゾルがゲル状態になった。我々にとっては故郷とか民族、言語がそのくらい大切で懐かしいものだったから、人民は兵士となって立ち上がった。中東の不安な孤の国々から、インド、ミャンマー、インドシナ、太平洋上の国家まで、みんな戦後の国家独立を目指したのでした。
西欧は大いに愧じてしかるべきです。十字軍の長い遠征の歴史もさうでしたが、それがコロンブスに行き着き、一方では東インド会社、30年戦争とウェストファリア、ナポレオンとウィーン体制、普仏戦争と社会保障制度と金本位制、第1次世界大戦を経て世界はドル基軸へと変換してゆきます。しかしその根底には資本主義の悪しき側面、マックスウェーバーの云ふ「精神なき専門人と心情なき享楽人」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)が瀰漫びまんし、西欧の価値観とは青白いキリスト教精神の退廃となった。今に至る「サイクス・ピコ」であり「バルフォア宣言」であり、インドシナではビシー政権であり、中東の混迷と暗闇、ASEAN世界に於ける比較劣位に置かれる戦後史となって行ったのであります。いわゆる国連主義もさうなんでせうが、EU議会の方々達も含めて、またG7も、一貫してその大勢を占める人達の中に流れているのは、ブリリアントでブライテストな貴族趣味的な繊細さであって、自己保身と大言壮語、意志薄弱な理想主義者たちの考え方は、ますますグローバル社会において、世界に置き去りにされた人たちに対して乖離してゆきます。そこに割り込むやうに大中華主義やプーチンの覇権主義や、意味不明なhuge baby なトランプ氏を生み出し、台頭を許した。
1948,1/30ガンジー死ス。
■「この文明は不道徳だ」とガンジーは云った。多くの現代世界に対する警鐘と、今なおそれだから多くの示唆をその言葉は与え続けてゐる。
先のベトナム戦争では韓国軍が参戦しております。日本は国内の基地提供などで間接的に米国を支援するところとなりましたが、自衛隊員をベトナムに送り出すこともなく、従ってベトナム人を一人として殺すこともなく、自衛隊員が一人として損耗することもなかったのです。
自衛隊は「軍」ではなく、固有の武力を有する実力組織、と定義されたのです。戦力は危うく海を渡るところとなりますが、憲法9条はそれを不可としました。軍隊の「軍」とは海を渡って他国との戦を前提としています。武力と戦力は明確に分けて考えなければなりません。憲法9条2項には、その曖昧に見えるロゴスゆへ、侵略ではなく別に深い戦争平和への意味合いが含まれていると理解するのが穏当であると思へます。「などて四海に」波立てやうとするのでせうか。いや、グローバルに考えたら世界は安倍首相の憲法9条「明文改憲」に対してはほぼ一顧だにしてゐません。日米同盟、防衛装備移転、物品役務相互提供(ACSA)、米艦防護・・・お金のかかることばっかり。武闘派ではなく、条約派。こちらはお金がかかりません。政治家がしかし、命がけでしなければならないのは、諭吉のやうに本所あたりに隠れているのではなく、本物の刃物の下に身を挺するくらいな覚悟でもって「江戸城無血開城」、つまり戦争を回避するためのあらゆる努力をすることではないでせうか。ベストあんどブライテストのバロン・西は硫黄島に死んだ。同じ齢、同じ外国エリートの白洲次郎は武相荘に百姓の真似事をして、戦後を嘯いてゐる。ぼくはそれらのことをエスタブリッシュメント主義と痛烈に思ってゐる。
ほぼ無用の長物と云はれています。北朝鮮の上空を飛ばすわけにはいかないからです。周縁の空を飛んで、どんな情報を得ると云ふのでせうか。1000億円・・・それからその後の何十年と続く補修費用。