そもそも出自が異なるのだ。

出雲系は明らかに時間的にも弥生アマテラス系に先行し、縄文時代を引き継ぎ、その態様はコミュニティー型で、モノコトは呪術、祭祀によって進められていった。妻問いと云ふ形も含めて、武器ではなく、どちらかと云ふと外交で、歌は、「訴える」と云ふ本質的な肉声に宿った。

アマテラス系は稲作と共に大陸朝鮮半島から流れ来たのは明らかだ。稲作は水争いを起こし、余剰はある者には権力を生み付ける。財を守るためには武器と、組織と、律が必要となった。この安全保障体制はあらゆるそれ以降の文明国の宿痾ともなって行く。

ぼくはもうほとんど「万世一系」に対して関心が無くなり始めている。今般の「生前退位」に関してもまず、「世襲」と云ふことに対する定義と、「万世一系」に対する定義を書き換える必要があるのだとこそ深く思い至るのである。「欠史八代」はもはや皇統にとって付けたしに過ぎず、それより先の天孫降臨こそが意味を持って来る。つまり"天壌無窮てんじょうむきゅう"と云ふことである。瓊瓊杵尊ににぎのみことが三種の神器を携えて、今まさに高千穂に下りようとするその時に、「豊芦原の千五百ちいほ秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫うみのこの王きみたるべき地くになり。爾いまし皇孫すめみま、就きて治らせ。行矣さきくませ。寶祚あまつひつぎの隆さかえまさむこと、當まさに天壌と窮まりなかるべし」豊かに稲穂が稔るこの国は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであろうことは、天地と共に永遠で窮まりないであろう」。『天壌無窮の神勅』とは「日本国とは天皇が永遠に統治する国」と云ふ疑うこと無き国体の万世一系を指し示し、それを以て信じなさい、とアマテラスは励ましたのだ。

 

自民党らの復古主義者らは、今この「天壌無窮」に凝り固まってゐる。

ぼくらはいつだってあらかたイリュージョンの世界に生きてゐる。しかし、それがたとへ嘘であっても、心地よければ、それが多くの人の真実になる。歴史的事実=史実などほとんど万世一系と云ふイリュージョンの前では全く意味をなさなくなって来るのだ。共同幻想とは国家においてある信仰に近く、冷静に理性的に以て踏み込む余地などはない。たとへば、崇神天皇は168歳(古事記では)まで存命だったと云ふのだ。しかし、神でましまされるならば、168歳よりももっと200歳であった方がより可畏かしこしと云ふこととなる。畿内大和では三輪山に大物主神がましまして、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命ヤマトトトソモモソヒメミコと夜な夜な愛を重ねることとなった。いつも夜が明ける前にお帰りになるので、明るいとき「昼も」と姫が申さるれば、大物主は「汝の櫛箱の中に」とお答えになり、次の日の朝「櫛箱」を開けれは、大物主は美しい小蛇になって現れた。姫は驚き慌てふためき、折悪く腰を抜かしたところの箸にホトを貫く。

『魏志倭人伝』によればこの頃の日本人はまだ箸を使う習慣はなく、人々は手づかみで食事を済ませていた。スサノオは天孫降臨に先立つずいぶん前に天上界を追放されたが、それは彼の本質的ないたずらによる。アマテラスの機織りの部屋に機織りの杼を投げやり、それが織女のホトを破ゐた。後にスサノオは根の国ではヤマタノオロチを退治するが、それはクシイナダヒメが櫛に成りなさり、その櫛を髪に差し、その力を得て恐ろし気な大蛇の腹を裂くことが出来たと云ふことだ。とまれ、神々は悪戯心もあるのだらうが、時にお箸に、杼に、櫛にと変身する。

 

神武創業(前660)とすれば仮に10代目としてもせいぜいがちょうど紀元「ゼロ」年あたりだらう。しかし、397~404の「三韓征伐」(仲哀天皇)の史実に照らせば、およそ大和政権が成立したとされる崇神(垂仁、景行、成務、仲哀)の時代はせいぜいが250年近辺と云ふことか。そして前記のヤマトトトヒモモソヒメミコのお話は「崇神紀」に記されてゐるのである。みるみる時間の観念が消え失せてゆく。そして、なんだらうか、ここにまた新たな歴史ロマンが立ち現われて来ると云ふのだ。「国譲りで」幽世かくりよの世界に閉じこもった大国主の和魂にきみたまである大物主は大和政権のお姫様と逢瀬を重ねてしまった。大物主はまた三輪山に還り、亡くなったヤマトトトヒモモソヒメは「昼は昼につぎ」「夜は夜につぐ」人と霊異によって為されたたいそうな陵に葬られる。箸墓古墳と云ふことだった。ところで歴史ロマンとはこのことばかりではなく、彼の邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのが247だとも云ふ。「作大冢つか径百餘歩」。巨大な前方後円墳の円墳の径にほぼ合う。卑弥呼は「鬼道を能く為し」、モモソヒメはよく「神憑がかり」すると云ふ。呪術の伝統は弥生系ではなく、お二人のヒメは縄文系を引き継いだかのやうだ。

奈良県桜井市にある纏向遺跡は往時250頃、都市計画された日本最大の交流消費センターであった。箸墓古墳(250前後)、崇神、景行天皇の陵と、他の多くの古墳群が点在する。出土遺物、搬入土器から推定されるその交流範囲は北は関東、北越、南は四国瀬戸内海、むろん九州地方にまで及ぶ広範囲なものだった。人々はここを過ぎる度にこれらの巨大な陵を見上げて、次第に勢力を増して来るヤマト大王の政権に可畏まったのではないか。『魏志倭人伝』に曰く、"倭国大乱"───。九州地方より稲作が北上し、鉄器の供給が盛んになった。環濠集落は関東の北にまで当時の日本には満ち満ちていた。弥生末期の人口はおよそ60万人である。239年卑弥呼は魏国に朝貢し「親魏倭王」の封号と鏡三角縁神獣鏡を100枚下賜される。卑弥呼(日巫女)は太陽のような輝きでもって邪馬台国連合体を50年以上も治めたが、彼女が晩年に魏にお墨付きを求めるようになったことは、その輝きに陰りが見えてきたことを意味する。

ヤマトトトソモモノヒメミコは第7代孝霊天皇の皇女である。彼女と大物主神の『神婚譚』は第10代崇神天皇の時代の出来事としてものされてゐる。崇神からは垂仁が在って、景行天皇の息子ヤマトタケルノミコトは西に、東に征討した。成務天皇のあとに彼の日嗣の息子が仲哀天皇となって、妃の神功皇后が"三韓征討"(397~404)とて海を渡ったことになってゐる。239の「親魏倭王」は中国の、当時の世界史である。卑弥呼が亡くなったのも今では247248年と確実らしい。この頃の確かな世界史標準239年、247年、397~404年が確かなものとなってゐる。

 

日本書紀は日本の「正史」である。720に舎人親王が総編集責任者となり藤原不比等らによって書かれた。天武天皇の時にいわゆる「日本」と云ふ国号と「天皇」と云ふ呼称が習わしになったと云ふ。中央集権律令国家体制をより強固にするためには、天皇と臣民との区別を明確に、「万世一系の皇統」を正統なものとして歴史時間軸に打ち込まなければならない。

不比等らは239を意識しながら、247はほぼ無視した。日本書紀には卑弥呼の名前も、邪馬台国の記述もまったく立ち現われないのである「箸墓古墳」は歴史時間的には卑弥呼の葬別と重なるが、陵墓は倭迹迹日百襲姫命との伝承になる。

 

卑弥呼は日巫女=日女命は倭迹迹日百襲姫命

 

239つまり「親魏倭王」を意識しながらとは、あろうことか卑弥呼のことをどうやら時間的にはずっと後のことになる"三韓征伐"(397~404)に海を渡ったと云ふ神功皇后にイメージを重ねて著作されてゐると云ふことだ。神功皇后は夫の仲哀天皇が築紫で亡くなった後も、悲しみを振り払って勇猛果敢に新羅、高句麗まで兵を押し進めたと云ふ話で飾られてゐる。お腹には赤ちゃんがいて、腹に腹帯まで巻いて兵を指揮したと云ふから畏れ多い。おなかの赤ちゃんは後の応神天皇になる。しかし、神功皇后が実際に存在したのかどうかは歴史上では不明とされてゐる。

414「広開土王」の碑

 

ついでながら当時の殷賑を極めた纏向の主宰者は誰かと云ふことで───

200年ころから邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀に用いたとみられる2千個を超す桃の種や大量の土器、木製品が見つかり、同市教育委員会が17日、発表。桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。邪馬台国畿内説に立つ専門家からは「卑弥呼の居館では」との声も(10,9/18日経)