この世界はなにかとっても不思議なもので出来ている
ぼくだってなにか感動するものを持って来なくてはつまらない
バッハの或る旋律が先ほどから頭のなかに繰り返す
先ほどからずっと三十歳を過ぎた息子に話しかけてゐる
死のやうな唐突なものではなく
もっと穏やかな奥行きのあるもの
驚かすんぢゃあなくて
おとうさんだってやがては
少しの痕跡を残すことなくこの地上から消えてなくなるんだよと
まるで、手品みたいに
こ半時も話しかけてゐたが息子は一言も口を利かなかった
ただ二三度うなずいたやうな気がした
息子が眠りに落ちる前にと
私は立ちあがって神様にお祈りをし
襖を閉めて、床に就いた
バッハの旋律がまた頭のなかに零れ落ちて来て
涙が二三滴枕に沁みた
倉石智證