10,7/24(土)南アルプス市、晴れ
透明な朝の光りが葡萄畑の棚の上に踊っている。
ば様の声が屋敷の畑の方から聞こえてくる。
じ様はようやく寝所から出てきた。
杖を手に座敷の框に立ち、眼をしばたたかせる。
「れえ年は居られねへかもしんねど」・・・
「ここだけどはなしだけど」とば様は夕べ云ったものだった。
じ様がほとほと疲れた様子でベッドの縁に腰をおろしながらさう云ったというのだった。
除草機の後遺症かほとほと疲れてしまい、
自分の体なのかよそ様の借り物の身体なのか自信がない。
気持ちも身体も宙に浮いたようで生きてる心地もしない。
この分だと来年辺りはあっちの方にお呼ばれしてしまうかもしれんと、
そんなことをば様に云ったのだ。
だが今朝の眼の前のじ様は寝起きのぼさぼさの頭をとにかく鏡に向って撫で付けている。
昨日の夜はさういへば、じ様はめずらしくビールをグラスに半分だけだった。
いつもは僕らが東京から百姓にやって来ると、
結構ご機嫌でもちろんそんなに飲んではいけないんだが、
それでも缶ビールの1本くらいは陽気に開けたものである。
なんだかめっきり痩せたよね。
じ様は奥座敷のベッドに横になり、無言で襖を閉めろと手で指図する。
全部閉めるのかとさしかかると、いや半分は開けとけとまた手でゼスチャーをする。
もうなんだか、けっこう、あれやこれやと面倒くさくなってしまった素振りになった。
ニュースで朝の爽やかなニュースもやっている。
最近はブルーベリーの夏になり
南アルプス市のここん家はこれからお盆前に巨峰の収穫にかかるが、
隣の畑はよく見える・・・
なんだか同じ紫色でもブルーベリーの方がよほど涼しく見えるし、
傍目にみても子供たちにも俄然人気の様子だ。
収穫も楽そうだな、ファッショナブルだよねと見ていたら、
ば様の好きな朝ドラが始まった。
朝ドラに蝉の声や鳥の声が混じる。
田舎の朝はそんなもんだ。
飯前の仕事というものがあって、なんでも朝作りというのだが、
夏ならまだ世間が暑くなる前に一仕事を片付け、それから朝食をいただく。
いつもば様はもう4時ころには眼が覚める。
私がサンダルを履いて屋敷の葡萄畑に降りてみれば、
畑の棚下の彼方に、黒い鳥避けのネットの束が置かれているのが見える。
もう今日の仕事の段取りが畑の下に放ってある。
朝ドラを見ながらば様はじ様の顔色をめざとくチェックする。
「ああ、今朝は随分いい顔をしているよ。やっぱり娘が来ているとちがうもんだねへ」
と、『ゲゲゲの女房』を見ながらそんなことを云ふ。
でも、ば様はすぐにドラマの世界へ、お箸は飯茶碗のうえで止まったままになった。
そんなば様の前で「朝まだ早いうちにネットをまわしてもらえ」
とじ様はいつものやうに遠慮深さうに口にする。
ば様の眼は点のやうになって朝ドラに見入っているのだが、
実際にはじ様に云われるよりもずっと前に、
実は昨晩のうちから頭の中に時間割が引かれている様子だったのだ。
お仕事はきびきびと、じ様が役に立たなくなってからはば様の出番が一気に増えた。
昨晩は、じ様は早々とベッドに横になったものだったが、
寝ているのか寝ていないのか境界が定かでもないじ様の目をつむった様子を眺めながら、
ば様は先日の出来事を口にした。
「ビックリしたよ。朝まだ早いし、
隣の家ででも除草機をかけまわし始めたのかと思ったら、
なに、掘りぬき井戸のところへ行ったら、
おじいちゃんが除草機を回しているじゃない。
そのまま土蔵の脇を転がして、村道に出てしまった。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
後を追い縋るやうにおばあちゃんはおじいちゃんと除草機を追いかけた。
そうしたら──
ば様のはなしは続く。
そうしたら道の真ん中でおじいちゃんの除草岸は止まってしまうじゃない。
わたしはけっこうパニックって、
「あれまあ、どうしましょう」と思っていたら、
あっというまに2台も車が後ろに止まってしまい、
じ様の横顔はそんな風になっても何処吹く風といった按配なのだが、
私としては気が気じゃない。
おろおろしながら、エンジンの止まったままの除草機を
引きずるようにしてなんとか道の端の方に二人して引きずり避けた。
2台の車は怪訝といふか、驚いたというやうな顔つきをして二人の老人を見やり、、
村道を追い越して過ぎて行った。
なにしろ二人は92歳と、85歳のじ様、ば様なのだ。
腑に落ちないと思われても仕方がない。
2台の若者たちの車が過ぎると、
じ様はそれで止まったままになっているエンジンのダイナモを回した。
これには少しコツがいる。
キャブレターに少しガソリンをまわしといて、一気にスターターのロープを引っ張る。
エンジンはかかった。
じ様はば様の止めるのも聞かず屋敷の葡萄畑に下り、
3反歩ほどの葡萄畑に除草機をかけまわした。
「しばらく雨も降ってなくて地べたが硬いからけっこうエラカッタね」
妻がTELした日だった。
じ様は熱中症なのか、そうでなくても心臓に持病やら、
トイレももはや体の外にぶら下げている有様だし、
とにかくTELのこちらでは何がなんだかさっぱり分からない。
ただTELの向こうの声は蚊の鳴くやうに心細げで元気がなかった。
「食欲がないんだってさ」──
到着したその日、その日は昼食もあんまり食べずに寝床にまた入ってしまったようだ。
そんなことを思いながら私が除草機をかけていると妻が伝令に来た。
その割にはしっかりとじ様の指図があった。
私は村道に面した李畑に除草機をかけていた。
「これ以上かけたらいかんよ」とじ様は伝えてきた。
というのは、さらに李畑より下に下がった葡萄畑のことで、
じ様がこの間無理してかけ回した屋敷の葡萄畑のことだった。
「これ以上かけたら、葡萄の根に悪いから」・・・。
根にストレスを与え、
これからお盆のころに向って最後の熟成をしやうとしている植生にとって
はなはだ迷惑この上ないことになる。
爺さん、寝てるわりにはけっこう元気だよなぁ──。
サンタローザはかなり前に収穫は終わった。
ソルダムはこの間東京に送ってもらったばかりだ。
だが、収穫したのにもかかわらず、ソルダムの木は枝を重たげに畑の上に広げ、
私が除草機をかけようとするとその前に枝を下ろし邪魔する。
この畑と村道の縁には毎年爪草が生いていて、
花はコメ粒のようにつけ始めたのだが、
彩りはこれからまだまだという感じだった。
「実際、えれへ、年寄りの冷や水さ」
「おーおぉ、そうだわさ」
ば様が相槌を打った。
思い出したやうにば様は続ける。
「あそこん家のMさんなんてさ、
脚からえれへ血い出しているから、どうなさったかね」
と吃驚して聞いたら、
「どうもこうもないさ、、ギヤを前へ入れたつもりがうっかりバックへ入れちもうて、
いきなり後ろに来やがった。
あわてて避けようと思ったが間に合わなくてさ──」、
Mさんが云うには
「おれの脚を齧くりやがった」というのだった。
笑い事じゃねへさ、何年か前にほら、Kさん家の嫁さんだって、
除草機をかけていて、思わず木に挟み込まれて亡くなったというじゃん。
昨日はかみさんの実家に到着したのはもう夕方の6時近くだった。
まだ真夏の夕方は明るく日が落ちる気配はまったくない。
すぐに着替えて屋敷の畑と李畑をかき回して、
除草機のことなら私らが代りにするからと云へば、
じ様は柿の木の畑が気になっている様子。
屋敷の畑と、李畑をかけ回し終わり、
除草機を軽トラに積んで、妻と柿畑へと回った。
柿の葉はいよいよ青々と茂っている。
柿の実も葉群の下に青く丸々とした実を太らせはじめた。
除草機のアクセルを全開にふかし畑をかき回してゆくと、
日がゆっくりと暮れそめていくのに、
地べたからは昼の熱気がいよいよ這い上がってきた。
「夕焼けや畑に残る妻と我八ツの上にも雲のたち立つ」
八ヶ岳の上のほうに巨大な積乱雲が立ち、
真っ白い雲にいくらか夕焼けがかかって綺麗にそこいらへんが輝いていた。
朝には少しはいい顔をしていたかと思ったのに、
昼にはまた調子が悪くなってしまったようだった。
昼飯を誘っても、要らないといって
エアコンをかけっぱなしにして寝所に横になったままである。
我々は食事は済ませ、この暑さのせいかねと、妻が心配になってじ様のところにゆき、
では冷やし茶漬けでも食ふかとたずねると、ようやく食べると頷いた。
茶漬けの中に彩をと、妻は屋敷の畑にオクラを採りに行く。
午後1時半、そろそろお百姓はみな午睡に入っている。
私らも2階に上がり、身体を横にすると、
母屋やお蔵の屋根に、小鳥がしきりに鳴きだすようで、
微風が鼻面や短パンの縁を過ぎていく心地よさに
すぐにうつらとなって夢の世界に落ちていった。
甲府盆地はすごい暑さになった。
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」(村上鬼城)
炎帝の日本列島わしづかみ(小山千代子)
じゃが芋を掘り出したまま大暑かな
ば様は手カンナでじゃが芋を何とか掘り出したまではいいのだが、
あまりの暑さのためにそこで降参して、
畑の畝に放り出したままにした。
櫛形を雲に隠して大暑かな
ようやく3時半を回ったころに、櫛形山にまた雲が立ち、
そしていくらか涼しいやうな風も吹いてきた。
夕されど畳に残る暑さかな
洗面器に入れ歯を夜の大暑かな
「あれ、おばあちゃん、じ様の歯磨きは。
ダメだよ、口ん中は雑菌だらけなんだから」
じ様は、メンドイ、ということだった。
ば様がじ様の入れ歯を外してあげて、洗面所の洗面器のなかに浸す。
やたら白くて、やたら人工的な肉色が目立つ。
さて、みんな寝るのかなと私は新聞を読んでいると、
ば様の声で
「探しとうが、入れ歯が分からんじゃん」
と大さわぎしている。
私は座ったままこちらから
「洗面所、洗面器」
と繰り返し云うと、ようやくあちらの方で
「ああ、洗面所」
というば様の声が聞こえた。
この夜、じ様の体温はようやく37.4度に下がった様子である。
ば様がさらにじ様にどうして除草機なんかかけたのかと聞くと、
「意地どう」
とじ様の答えたそうである。
蚕場の部屋に蚊帳吊る暑さかな
私らが寝る2階の部屋は、昔、ぶち抜きのお蚕さんの部屋だった。
蚕の桑を食べる音や、深夜にお蚕さんが蚕棚から落ちる音などが聞こえる。
智笑