廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで
土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、
九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、
いよいよ大三菱の歴史がスタートする。
そのころ世界は1870年をはさんでその前=20年間はインフレで、
その後の=20年間はデフレ傾向だったという。
確かにヴィクトリア朝期に金本位制にあった国では1873年ころからデフレが起きていた。
しかし、そのデフレは1896年に終わっていた。
デフレは金本位制という国際通貨制度の産物だった。
1870年代に多くの国が金本位制を採用する。
それは金の需要を引き上げたので、金の需要は上昇することになった。
■(基軸)(本位)とはそれでモノの価値を計られること。
金の絶対量が減ると金の価値(価格)が上がる。
金本位制の下では金で計ったモノやサービスの価格の下➘落が起きる。
1896年にデフレが終わったのは、
南アフリカやカナダで金が発見され、金の需要に金の供給が追いついたからである。
■金本位制を採用してなかった日本(銀本位)はデフレに陥らなかった。
(ボイス10月号)
日本は松方正義の政権時代、1897年に金本位制を採用した。
しかし、それ以前は銀本位制だったので、銀の価格が下がり、
為替が円安傾向に固定されたので、繊維産業の勃興を援護したのである。
1897年は、高橋是清は正金銀行時代で、
松方正義の金本位制を支援したが、のちには結局、近輸出再禁止に向っていった。
明治32(1899)年2月に日本銀行副総裁になり、
金本位制確立や日露戦争の戦費調達のための外債募集に奔走することになる。
日露戦争=8億2000万円の外債の調達(1904年)(09,11/29NHK)
■明治37(1904)年2月24日、日銀副総裁・高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かった。
すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、
陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始して、日露戦争が勃発していた。
■是清の役割は欧米で外債を募集し、戦費を調達することであった。
政府はとりあえず1年分の戦費を=4億5千万円と見積もり、
そのうち=1億5千万円が海外に流出するとの予想を立てた。
しかし日銀所有の正貨(金と交換しうる貨幣)余力は=約5千万円程度しかなく、
不足分の1億円を何としても外債で調達しなければならなかった。
当時の国家予算・約6億8千万円と比較してみれば、その規模が想像できよう。
■米国も自国産業発展のためそれどころではない。
是清は米国がだめならとロンドンに旅立つ。
ようやく銀行家たちと話がまとまったがまだ必要額=1億円の半分である。
銀行家たちの晩餐会に招待された。
そこに居合わせたのが、ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。
是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、
開戦後の人心動向などについて聞いてくる。
是清は一つ一つ丁寧に答えた。
翌日、シフが人を介して、残りの5百万ポンドを自分が引き受けて
米国で発行したいと言ってきたのには、是清も驚いた。
※1000万ポンド=1億円
■かねてからロシアではユダヤ人が虐待されており、
海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、
同胞の待遇を改善しようとしていたが、
ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、一向に約束を守らない。
■シフは米国のユダヤ人の会長であり、ロシア政府に対して憤慨していた。
そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、
これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、ロシアの政変にでもつながれば、
ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、と考えたのであった。
そのころエルサレムはオスマントルコによって支配されていたが、
1898年には、「世界シオニスト会議」が開かれている。
それにつけてもつくづく「カネがなければ戦はできぬ」ということであった。
さて戦をする当然のごとくその後にはひどいインフレが待ち受けている。
大正7(1918)年、7/23日の早朝、(富山県)
漁師たちの女房四十数人が浜に集まった。
沖には北海道へのコメの輸送船伊吹丸が停泊していた。
水上ノブらお母さん=700人が、夕刻7時、コメ問屋に訴訟を――。
埃まみれに泥まみれになって官憲の脚にしがみ付くお母さんたち。
政府のシベリア出兵の決定でコメの投機熱が高まり、米価はうなぎ上りに上がった。
1升が=45銭まで値上がりした。男の工賃が=50銭のころだった。
第一次大戦後の成金のバブルから不況へ。
資本主義経済が始り物資不足と、マネー経済は投機熱を生んだ。
大正時代の中期以降は工業の発展が先行し、
人口増加(大正元年=5000万人超→昭和元年=6000万人突破)や
工業への労働力集中などでコメの自給率が低下した。
需要が増え、供給が減ったため米価は上昇、
問屋の売り惜しみや投機資金の流入で米価は急騰した。
そこへ7/12日、寺内正毅内閣はシベリア出兵を決め、
コメの投機に拍車をかけたわけだった。
米騒動が勃発する。
日本国中に燎原の火のやうに燃え広がり、暴動は=100万人規模に膨れ上がり
軍隊まで出動することになった。
大衆運動からデモクラシー運動(労働運動、婦人運動、普選運動へ)へと引き継がれていく。
スペイン風邪が「パンデミック」となり世界中に猛威を振るい始めたこの年、
ドイツなどが連合国側に負け、
11/11日、第一次世界大戦は膨大な一般市民を含めた人員を消耗して終わった。
非戦闘員まで数えると死者=約4400万人にもなるという。
1919年、ドイツではワイマール憲法がしかれ、
一時の理想主義的な国家が始るかに見えた。
しかし、ドイツにしてみれば過酷なベルサイユ条約がのしかかってくる。
ドイツは途方もない賠償金に加えて巨額な戦時国債の償還もひかえていた。
1921年5月までに=200億金マルク
■それに輪を掛けたのが、
1921年4月27日、ロンドンで行われた連合国最高会議の決定であった。
それまでドイツの賠償金はベルサイユ条約に基づいて200億金マルクとされていたが、
この会議で引き上げられ、=1320億金マルクとなったのであった。
天文学的数字の賠償金であった。
ビヤホールでは飲んでいるうちにビールの値段が上がっていく。
ハイパーインフレがドイツを襲い、庶民の生活を打ち砕いた。
良家の子女たちのなかには“春をひさぐ”ような困窮もあらわれ、
国民に“ルサンチマン(怨念)”が溢れてきた。
強者に対して、それをなしえない弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の
不可能を生きていかなければならない止むに止れない感情である。
(以下webより)
1923年の事である。
前年からドイツを襲っていたインフレが其の年の10月に入って一段と激しさを増す。
大戦前に比べて、ドイツの通貨量は=2940億倍、
卸売物価は=1兆2600億倍にも達した。
このインフレの背景には、世界大戦で疲弊したドイツ産業界の生産力不足がある。
需要に供給が追いつかない為、市場に恒常的に品不足だったのである。
此処に敗戦国故の信用不安等が絡み、
急激なインフレ、即ちハイパーインフレが発生したのであった。
物価は一時間毎に上昇し、切手は訂正印のないまま役人が時価を手書きする有り様だった。
■ドイツ政府はこの異常な事態を収拾する為に、
1923年末にレンテン銀行を設立した。
そして過渡期的手段として、不換紙幣レンテンマルクを発行したのであった。
レンテンマルクは正貨即ち金と兌換出来なかったが、
全産業の保有資産を担保として、=32億レンテンマルクまで保証していた
(正貨は資産を裏付けとする)。
レンテン銀行は1兆マルクを=1レンテンマルクと交換した。
つまりデノミネーションである。
是れによって貨幣価値は急速に信用を取り戻していった。
■これに呼応して、政府も其れ迄の将に無制限な紙幣発行を中止し、
1924年8月には貨幣法を制定、
新たなライヒス銀行券を発行してレンテンマルクを回収した。
さしものハイパーインフレも、これによって奇跡的に終息していったのである。
世に言う「レンテンマルクの奇跡」であった。
だからと言ってドイツ経済が立ち直った訳ではない。
否、此の時からハイパー失業時代がスタートしたと言っても過言では無かった。
1923年……………………………… 751、000人
1924年……………………………… 978、000人
1925年……………………………… 636、000人
1926年………………………………2、000、000人
(略)
1930年………………………………3、000、000人
1931年………………………………4、500、000人
1932年………………………………5、500、000人
ヒトラーと彼の同志達、即ちナチス党が、かの有名なミュンヘン蜂起をなしたのは、
1923年11月8日の事であった。
このときは革命に失敗したがヒトラーは監獄で「我が闘争」を書き上げる。
やがてヒトラーはドイツ政権を握ることになった(1933年)。
1918年の日本の“米騒動”では
日本国民は国の威信(シベリア出兵)よりも自分たちの権利を選んだわけだが、
ドイツでは大混乱のなかで、国民は”自由”より”独裁”を選んだのだった。
日本では1927年の昭和恐慌からいよいよ本格的な不況が始った。
靴磨きまで株に手を出すという米国のバブルに、
ケネディ大統領の父ジョセフ・P・ケネディはすべての株を手放した。
社会が金儲け一色になる最中、英中銀が金利を上げる。
英国の金利は=6.5%に。
米金利は=6%で、英国への資金の流出がきっかけ――
1929,10/24日、ウォール街の株の大暴落が始った。
暗黒の木曜日はその後ウィルスのように世界に蔓延して行く。
この年三井本館が完成した(団琢磨)。
この年阪急百貨店が創業(小林一三)。
1930年の浜口雄幸内閣の金解禁は世界不況の嵐の最中、窓を開けるようなものだった。
世に言う井上準之助(蔵相)デフレである。
「雇用,利子および貨幣の一般理論 」は1936年、
日本の「2・26事件」の年にケインズによって書かれた。
新古典派の理論によれば完全雇用と安定的な経済の成長が正常とされるのに対し、
ケインズは経済は所与の要件において不安定で失業と経済の循環は必然の事実であるとした
(不均衡状態が一般的な状態)。
“アニマルスピリット”という言葉はケインズが「一般理論」で紹介し
「血気」と邦訳さされた。
「血気」――
もっと上がるのではないか、下がるのか、自信や不安や恐怖など、
合理的にとらえられない人間の感覚には経済活動を突き動かす働きがある。
事実や情報が取り巻き、そこで左右される「フィードバック」(行動検証)こそが
経済学の中心のモデルとなる。
20世紀は戦争の世紀である。
軍靴の音がまた激しく聞えてくる。
銀行や証券の規制が未熟であったり、
中央銀行の権威も機能も政府に所属していた。
世界は貿易の不均衡をコントロールできず、未だ貿易の世界機関はなかった。
人類は普遍的な価値を見出すためにここまで来たが、
摑まえかけていたものを手放し、また真ッ逆さまに戦争へと突っ込んでいった。
戦争の前には或る欠損(不均衡)があり、
戦争の後にもさらに大きな欠損が生じる。
通貨(貨幣)にはその独特の本能があり、
貨幣は基本的には“さびしんぼ”である。
さびしんぼはより「利」のあるところに集まって悪さをするようになる。
「利」はさらなる利回りを求めて、奔流し始める。
国家は人民の人口をコントロールしなければならず、
国益のため戦前も今も、国家自身のエゴをむき出しにする。
戦争が始る。