雄ちゃんへ

この間はどうも。
しかし、いよいよ小沢という権力者が、
ほんとうの顔を現してきましたね。
北朝鮮がデノミを打った。
それで、ちょこまかと歴史をさらってみた。
(webより)
元禄小判(げんろくこばん)とは
元禄8年(1695年)9月に発行された一両としての額面を持つ小判であり、
慶長小判に次ぐものである。
■佐渡金山などからの産金は寛永年間を過ぎると衰退し始め、
加えて、生糸貿易などにより金銀が海外へ流出し、
新井白石の『本朝寳貨通用事略』によれば相当な流出額に上がり、
その数値の信憑性はともかく、金銀の流出高は多額に上ったことになる。
加えて人口増加に伴う経済発展から通貨不足が顕著になり始める。
一方、市場に流通する慶長小判は90年以上の流通により、
磨耗、破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、
修繕を必要とするものが多くなっていた。
そこで勘定奉行の荻原重秀は貨幣の金銀含有量を下げ、
通貨量を増大させる貨幣吹替え(改鋳)を行った。
これは品位を低下させるものであるため、
その秘密保持の観点および改鋳利益を確実に取集するという目的から、
慶長期には自宅家業である手前吹きであった貨幣鋳造方式を改め、
江戸本郷霊雲寺近くの大根畑に建てられた吹所に
金座人および銀座人を集めて鋳造が行われた(直吹方式)。

この吹替えは慶長小判2枚の地金に灰吹銀を加えて
新たに小判3枚を鋳造すれば通貨量は=1.5倍となった。
通貨の増大はインフレーションであり貨幣価値が低下するため、
出目改鋳利益)獲得と経済効果を狙った通貨増大は同時に達成できるものではないが、
結果的には後述するように莫大な利益を幕府にもたらした。
■一方、★通貨量増大が経済発展に見合うものであったため、顕著な物価高騰はなく
経済は安定した。
しかし、丁銀の品位低下が=4/5にとどまったのに対し、
小判=2/3となったため、
このアンバランスから元禄11年(1698年)頃より銀相場高騰を見た。
また元禄の吹替えによる幕府の得た利益は丁銀における出目を
1両=60匁に換算して小判と合計すると、5,280,250両余となり、
新井白石による推定値=500万両および
荻原重秀による推定値=580万両も遠からずということになる。
■その一方で商人の中には良質の慶長金を退蔵する者が多かったため(グレシャムの法則)、
宝永5年(1708年)3月には増歩=3%に、
宝永6年(1709年)6月からは=10%まで引き上げ交換の促進に努力した。

元禄10年(1697年)4月
幕府は11年(1698年)3月限りで慶長銀を通用停止とする触れを出したが、
引換が進捗せず退蔵する者が多かったため、
11年(1698年)1月に通用を12年(1699年)3月限りと改めたが、
通用停止には至らなかった。
結局、通用停止は元文3年(1738年)4月末となった。

慶長銀は銀の含有率が=8割だったのに対し、
元禄銀では、ご公儀はこれを=6割4分まで落とした。
対馬藩は、朝鮮の薬用人参や白糸を一手に贖っていたが、
その支払いに銀をもってしていた。
朝鮮政府はその銀を溶かして吹き分け、取り出した純銀を清国に売っていた。
対価を元禄銀で受け取ると、純銀の量が目減りして大きな損を蒙ることになる。
(辻原登「韃靼の馬」日経)

これまでどおり、対馬が朝鮮と取引を続けてゆくには、
元禄銀での支払いの場合、
それまでの慶長銀=100貫目について元禄銀=125貫目でないと釣り合わない。
朝鮮側との厳しい交渉に加え、幕府に対しては悪鋳の中止を働きかけるかどうか。
対馬藩内は侃々諤々。
雨森芳洲はその只中にいた。(辻原登「韃靼の馬」日経)
因みに新井白石と雨森芳洲は木下順庵の同門である。

さて、元禄から話は飛んで、文化文政を過ぎるころの薩摩藩に話を移す。
薩摩藩は河川改修工事を命じられるなど、出費が重なり財政は火の車。
1830年ごろ借入金が=500万両に膨らむ。
利子が年=40万両にのぼり、年=25万両の収入を上回り返済不能になった。
薩摩藩は無利子で=250年の分割払いにすると債権者に通告。
実質的に借金を踏み倒し、用立てていた大坂の豪商は相次ぎ倒産したという。
薩摩藩は収入の=20年分を借りた。
現在税収=40兆円として×20年分=800兆円。すでに薩摩藩をえている。

相次ぐ桜島の噴火、藩主重豪しげひでらの派手な出費もあった。加えて強権を発動して=120万両ほどの借金を一方的に反故にしたことで大坂商人の不信を買い、
高利貸に手を出さざるを得なくなる。
最悪の事態が重なり、藩の借金総額は=500万両
「大工さんの工賃で換算すると、500万両は=現在の1兆円」。
1828年53歳調所広郷ずしょひろさとは財政改革の責任者に抜擢される。
①「無利息250年賦償還法」
大阪商人、出雲屋と組んで打ち出した借金の利子をゼロにして、
元金を=250年かけて返済するという体のいい踏み倒し策。
幕府に=計35万両ほど上納するという周到な手も打つ。
②「砂糖の専売制」
奄美大島などで生産する黒糖の管理を厳しくし、
出雲屋など限られた商人にしか扱えないようにして、
砂糖の価格を高く維持する。
③「密貿易」
富山の薬売り商人らと汲み、漢方薬を密輸入し、北海道の昆布を密輸出する。
■藩の財政が好転したのは10年後、1838年調所広郷は家老になった。
6年後(1844年)、藩には=50万両備蓄ができる。
しかし、その4年後、広郷は密貿易の事実などが幕府に漏れるのを恐れて、
一身に責任を負って服毒自殺をする(1848年)。73歳だった。
ちなみに篤姫家定に嫁いで行ったのは1853年である。
・身の丈で暮らせ、
・財政規律の重要性、
財政の回復における
・貿易の重要性などがうかがえる。
島津藩の他の藩に先んじた財政改革が、
その後の維新の回天の原動力になったのはいうまでもない。

明治の初めにも貨幣の交換があった。
江戸時代には正貨のほかに各藩には藩札が流通していた。
(藩札について以下webより)
江戸時代は、幕府の発行した三貨(金・銀・銭)が正式な貨幣として流通していましたが、
ともすれば通貨不足となることもあったようで、
藩札の発行はそれを(デフレ)緩和することを当初の目的としていたようです。
そのため藩札は、それを発行した藩の「札会所」に持っていけば、
幕府正貨と交換できる原則になっていました。
ただし、諸藩の財政悪化にともない乱発された藩札のなかには、
兌換の原則が崩れて価値が暴落し、一揆の原因となったものもあったそうです。

元禄赤穂事件の際に、
家老の大石良雄がすぐさま藩札を額面の=6割交換という高い率の銀正貨で回収し、
城下の混乱を抑えた話はつとに有名である。
播磨国赤穂藩の藩札は延宝8年(1680年)に初めて発行されたが、
領内の通用を藩札のみに限り、正貨の流通を禁じていたため、
この時の交換比率は大きな問題であった。
また、赤穂藩はの生産と売により財務的に耐えられた点もある。
浅野統治時代の赤穂藩の藩札はことのとき、ほとんど回収されてしまったため、
現在は数枚が残る程度で、古銭としては高額で取引されている。

藩札の発行は、藩内の特産物の専売制と表裏のものとして行われることもありました。
藩が特産物を買い上げる際、その代金を藩札で支払うわけです。
そのような形で発行された藩札の流通は比較的順調だったようです。
また、藩札発行に際しては、領内外の商人や富農が札元として登用されましたが、
彼らに対する信用によって藩札が流通するという側面もありました。

幕末から明治にかけて日本経済も、通貨市場もてんやわんやである。
しかし日本では、幕府が大坂の堂島のコメの先物取引を公認したこともあって、
世界的にも先物市場の先駈けとなって、
投機を組み込んだ高度な取引に慣れた商人がいたため、
開国後、外国商人に日本経済を牛耳られることもなかったという話もある。

1967年岩崎弥太郎33歳)は開成館長崎出張所に勤務していた。
藩立の商社・貿易会社で藩の生産品を外国に売って
汽船や武器を購入するのが主な業務であった。

まさに世界は「金銀本位制」から「金本位制」に変わりつつあった。
日本金1=銀4.6に対して、
外国では金1=銀約15で取引される。
日本からは金の大量流出が続き、メキシコ銀が代わりに流入、
大変な富の損失となった。

1968年
岩崎弥太郎後藤象二郎に頼んで長崎の開成館から大坂の開成館へ転出する。
翌年の1月には版籍奉還があり、
新政府は各藩に対して藩営の商会所の規制に乗り出した。
土佐藩は藩営商会所禁止令により藩より切り離された大坂商会に改編、
岩崎弥太郎を中心とする九十九商会を設立、汽船運輸をおこなう。
藩札の回収・交換引取りの情報が入ってきた。
藩の無理難題は「大量の藩札を政府発行の太政官札に交換せよ」。
弥太郎は輸出の貿易は正貨で受け取り、藩庫に蓄える。
藩の特産品は藩札で支払いそれで貿易をして正貨を得る。
通貨交換の情報を得た弥太郎は大量の藩札を買占め、
引き取らせて大きな利益を上げたという話もある。

ちょっと後は続きだ。