経済危機をもたらした証券化商品とはどのようにして出来上がってきたものなのだろう。
1531年、現在のような形の証券取引所がベルギーのアントワープで初めて生まれた。
ここでは為替手形や、公債などが取引された。
欧州では15世紀ころから国家間や民族間の対立が激しくなり、
戦費調達のため公債発行が始る。
債券を売買する取引所が必要になり、欧州各国で証券取引所が次々と解説された。
証券市場は政府が資金を調達する場として機能するようになる。
16世紀ハプスブルク家はフランス(フランソワ1世)との戦争資金を賄うため、領邦の議会を利用した。
※ネーデルランドの支配者は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)
債権者から見れば皇帝には寿命があり、債務継承者は定かでない。
一方議会は恒久的な機関で国王より信用が高い。
そこで皇帝は、巨額の資金を長期間低利で借りるため、
現在のオランダである領邦ネーデルランド連邦のホラント議会に、
元利返済のための徴税権を与えたのである。
「価格革命」
なぜ世界でいち早く西欧が経済成長できたのか。
たしかに16世紀前後、イスラム勢力のオスマンは停滞期に入っている。
宗教改革がキリスト教徒とピューリタンの対立を激化させ、
一方ルネサンスを経て自由な息吹は商人の台頭とともに欧州の「価格革命」を促した。
地中海のイタリアの下落と、ヨーロッパの上昇である。
当時の先進国地域地中海世界の人口=3000万人に対して英独仏東欧の新興国=5700万人。
経済のグローバル化は先進地域と新興国との経済の平準化をもたらし、
インカなどの新大陸からの銀の大量な流入もあって、
欧州などの小麦の値段は17世紀にかけて=8倍になったという。
銀はこのころ、現在の株や証券化商品と似た金融商品の側面もあった。
いずれにせよものすごい流動性が供給され、経済が活性化されたのに違いない。
■ヘンリー8世
1534年、イギリスのヘンリー8世は自身の離婚問題もからみローマ教会から絶縁され、
イギリス国教会の首長となった。
宗教改革によって奇しくもイギリスは中世から離脱する。
この年、パリでイエズス会が結成された。
■オスマントルコと宗教戦争
1566年、オスマン・トルコはボスニアヘルツェゴビナのモスタルに石のアーチの巨大な橋を建造。
1571年、レパントの海戦でヨーロッパ勢がイスラム勢力を凌駕した。キリスト教圏の一体感の確立。
近代最初の覇権国家スペイン・ハプスブルク家・フェリペⅡ世。
1571年、信長による比叡山延暦寺の焼き討ちが(僧俗3,4千人が・・・)なされたこの年の翌年、
1572年、聖パルテルミーの虐殺は8月23日夜から翌24日未明にかけ、
パリ市内で3000人の新教徒(プロテスタント・ユグノー)が虐殺された。
当時僅か12才のシャルル9世の母后カトリーヌと旧教徒の首領ギース公の共謀によるもので、
以後20数年フランス全土は新旧両教徒間で同胞相食む残虐な争乱に明け暮れた。
1574年、信長による長島の一向一揆の焼き討ち=男女2万人を焼き殺す。
※偶然かどうか洋の東西を問わず日本でも信長による凄まじい宗教の弾圧が実行された。
■エリザベス1世とスペイン
1588年、英国エリザベス1世がスペインの無敵艦隊を破った。
「価格革命」はイギリスのエリザベス1世の時代にやって来る。
それまでのポンド安➘からポンド高➚政策への切り替えがなされた。
物価が安定し、人々の暮らしは楽になり根経済力は高まった。
しかし、ポンドの切り上げによって、輸出ブームに乗っていた毛織物の輸出競争力はなくなり、
毛織物産業は苦境に陥った。
その局面で、高い価値を付けられる薄地の「新毛織物」が開発され、輸出の主力に返り咲いたという。
通貨高政策により、輸出依存の産業構造のさらなる高付加価値産業への転換に成功したのだ。
エリザベス1世の時代の絶対主義と貿易とシェイクスピアに代表される「英国ルネサンス」が花開く。
コロンブスが到達した米国大陸(1492年)との貿易で16世紀に繁栄を築いたスペイン。
今風に言えば、「グロバリーぜーション」の先端を走っていたが、
だが、無敵艦隊が誇る軍事力のまかせ、海外からの金銀財宝の収奪に安住し、
国内産業の育成を怠る。
賃金インフレのの下での「実体のないマネー依存経済」は、
(※英国は産業構造の転換、スペインは金融バブルの崩壊。昨今のアイスランドを髣髴させる)
1588年の無敵艦隊の敗北とともに長い没落の道に突入して行く。
■中世荘園経済封建制度の行き詰まり
カトリック的封建領主・荘園経済(スペインハプスブルクなど)の支配体制の行き詰まりと、
脱カトリック的「生産体制」としてプロテスタントとか、英国国教とか、オランダの自由体制とか、
ドイツのギルドなどへと転換して行った。
カトリック的とは生産性の悪さということになる。
もはや人口をコントロール(「養う」)出来なくなっていくのである。
ポルトガル、スペイン(旧教)の没落と、イギリス、オランダ(新教)の台頭があからさまに。
オスマントルコ(イスラム)も停滞のままである。
■東インド会社
1600年、英・東インド会社設立(資本家と経営が一緒)
1602年、オランダ・東インド会社が設立される。
貿易独占権、戦争権・講和権、条約締結権などを持つ国策会社。
証券市場から事業資金を調達しようとしたのがオランダ・東インド会社で、
世界で初めての株式会社となる。
東インド会社の株式は当初、アムステルダム市内の金融街で取引されだが――
1611年、アムステルダム証券取引所が開設され、
世界で最初に株券を売買する取引所となった。
16世紀のオランダでは国家によって「所有権保護」が確立され、「契約履行」が強制されるようになった。
契約不履行を訴える裁判所や契約を記録する公証人役場が設置された。
こうした「制度革新」こそが経済活動に参加する個人の動機を生み、
アムステルダムを貿易都市にさせた。
※法的インフラストラクションが重要。
⇒オランダは30年戦争(1618-48年)で荒れる中欧を尻目に
繊維産業を中心とするブーム経済に入っていた。
オランダは欧州一の経済力を手に入れた。
1634-37年にかけて、チューリップ熱、先物取引。
ヨーロッパは<香辛料貿易>から「産業革命」を経て、<植民地貿易>に移っていく。
1614年、日本では徳川幕府・家康が「禁教令」を敷く。
堺、長崎などの港湾を直轄、後「鎖国」などにより貿易を独占した。
家康ははじめメキシコ・スペイン(旧教)との通商を探っていたが、
宗教と貿易を切り離すオランダ(新教)に乗り換えた。
1619年、イタリアのジェノバの4-5年物国庫貸付金=1.125%の最低利率を記録。
中世・荘園制経済・封建体制が成熟期を迎え、利潤率低➘下に直面した封建領主は、
結局「大航海時代」に乗り出して行くことになる。
※中世的土地本位制封建体制の終焉である。
経済の新しいけん引役、受け皿、メシの種、重商主義など新しい経済体制が求められた。
■「権利の請願」
1628年、英国に於いて、「権利の請願」がなされた。
「法こそ王である」
エドワード・コークはチャールズ1世に対して「権利の請願」を突きつけた。
まず「法」という概念がイギリスの民主主義革命へと結びつき、
→後の<産業革命>の起爆へと結びついた。
「人治」→「法治」→「法化」
王は気まぐれで戦争ばかりをしている。
イギリスは財政が困窮し、チャールズ1世は戦費調達のため臨時課税を求めた。
議会は猛反発する。
資本主義は「利子」で考え直される。
債務者としての王は絶対ではなく、気まぐれで、奢侈である。
その上「王」が継続的なものであるかどうか、疑問である。
に対して、機関としての「議会」には永続的信用性がある。
※成熟化・定常化社会ではケイジアン的財政出動政策は効果がなくなる。
日本も1997,9月から長期金利が=2%を上回ったことがない。
日本にとってもさあこれからが「大航海時代」で、
戦前のかっての“満蒙が―”ではないが“ASEANが日本の生命線”になるのだ。