09,8/25(火)晴れ

昼食は鰈の煮魚と冬瓜と豚挽肉の煮物、ホウレン草煮浸しに野菜碗。

全部を美味しくいただく。食後は息子が差し入れてくれた伊藤園のお茶である。


1:50からナースステーションの近くのコンファレンスルームで同意書について手術の説明、

つまり危険性が伴うことの説明が行われた。

速水DrはパソコンにわたくしのレントゲンやCTスキャナーなどの各データーを引っ張り出してきて、

私と妻に具体的に今の私のヘルニアの状態をお話なさる。

ヘルニアには何種類かのパターンがあるようだ。

私の場合は鼠径部ヘルニア、普通、お母さんの体内に居るときは睾丸は腎臓の近くにあるが、

母親の体外に出たときには腹腔から陰嚢に収まることになる。

そしてその腹腔から陰嚢に落下した部分は間もなくふさがってしまうのだが、

おそらく私の場合はふさがることなくそこへ筋肉の衰えとともに

腸の一部がヘルニア(出てくる)したということだった。

図で手術の部位が描かれる。「ここをこうして――」ネットを入れて筋肉を補強する。

お話しは続いた。万分の1くらいの確率でしかし、

手術中の突然の出血とか、また術後の化膿(ネットなどから)や、

何かの折に再発するなどなどのことが起る場合がありますよ、ということだった。

「下記のごとくに十分な説明を受け理解できましたのでその実施を同意します」

サインをして同意し、よろしくお願いしますと妻共々お願いして部屋を退出した。


2:30部屋に看護師さんが見えた。

今日の夕方から麻酔までの流れをペーパーで説明してくれた。

夕食はいただけるが、24時以降はお水も飲んではいけません。

T字帯、術後衣を台の上に用意して置いてください。

明日の朝6時に浣腸します。それから弾性ストッキングを穿いて置いてください――。


2:45栄養士の方が食事の説明にいらっしゃった。

どうですか、すっかり頂いていますか。ええ、美味しく全部いただいております。

カロリーのことについても説明してくださる。


4:00-4:15お風呂は女性のお部屋の方に廊下を行って左側にあった。

入浴中の方に札をひっくり返して、ドアのノブに掛けなおした。

お風呂場は当たり前のことだが清潔でシンプルである。

4:30までの予約だったが、とにかく清潔にして、さっさと着がえて済ました。


4:30には夜勤担当になります、と別の看護師さんが現れた。

4:45速水Drほか3人のDrがおいでになる。

「じゃ、明日がんばりましょう」


5:00になった。(看護師)

「胆汁が出ると体の中のNaが失われるんですよ。

Naを補給する。まあ、食塩ですけれど」

栄養剤の点滴のことだった。

Kさんはまた痛がり始めた。

手術の時まで喘息の発作は出なかったのに、ここにきて咳が出るようになったようだった。

「痛いんですよ」

「お腹の筋肉ってえらいですからね。

咳をする時こうして傷を真ん中に寄せるようにして、

お腹を抱えるようにしてしてみてください」

「どうですか」「・・・」

「痰が出ないと肺炎になりやすいですから、咳をして痰を出すように」


ビソルボンは痰を軟らかくして出しやすくするお薬です」

(痰の切れをよくする気道粘液溶解剤)

「今霧が出ていますから、そう、そうそうそのくらい咥えて」

(シューというガスが出るような音がしばらく続く)

「お腹押さえて咳、といっても痛いですねぇ」

「そうですね、全く痛くならないということは・・・」

「お腹の力って強いんですね」


6:30速水Drと麻酔担当のDrが部屋に訪れる。

「麻酔と同時に呼吸が出来なくなるので、その間人工呼吸になります」

「喘息は?」「ないです」

「歯がぐらつくようなことは?」「ないです」

「薬は?」「花粉症の薬くらいだけです。それもシーズン中だけ」

「水分は手術中にも点滴で補給するので心配ないです」。

やはり、明日がんばりましょう、と云って出て行かれた


8:00夕食である。明日は手術、しばらくはご飯はいただけない。

豆腐ステーキ肉みそあん掛け、八宝菜、キャベツの浅漬け。

ゆっくりと味わっていただく。


1918,3/9日夜、コザック兵も、自衛軍も、日本人有志による自警団もそれぞれの持ち場に散った。

粉雪が舞っている。氷点下はゆうに20度は下回っている。

眼だけが激しく動いている。耳は深とした夜を捉えるばかりだ。

寒いのかどうかさえももう分からない。内蔵だけが鼓動を打っている。

突然、どこかで銃撃の音が起った。すぐに敵味方入り乱れて市街戦に入った。

じりじりと自衛軍は革命軍に押されていく。いったん引けてしまうと、

総崩れになるのにそんなには時間がかからない。

そんななかでいつの間にか日本の自警団は大事な戦闘部に取り残される形になった。

石光は退却するように声をからす。これは日本の戦いではない。

日本人はあくまで自分たちを守るためにであってそれで支援するのだ。

ここは自衛軍の守備位置だ。後方へすぐに退却するように――。

朝方になった。寒さはいよいよ厳しくなって、氷点下40度、ついに銃の油さえ凍りついてしまった。

この戦いでムーヒンの革命軍が勝利した。敵味方合わせて=5000人ほどの戦死者が出た。

日本の住民は夜のうちに結氷したアムールを渡って対岸の黒河に避難したが、

それでもこの戦いで7人(後で亡くなった方も)もの犠牲者が出てしまった。

石光は非常な責任を感じるのだった。

建物のいたるところが破壊され、雪の上に点々と続くおびただしい血痕も

いつしか降る粉雪にその色を消されてゆく。


シベリア出兵は1918,8/2日から1919,10/25日

参加将兵=約24万人、戦死者=約5000人(3000人 ?)、戦費=約9億円

時の首相は寺内正毅外相・後藤新平元老山形有朋などは「自主的出兵論」

一方、対米重視論政友会総裁原敬牧野伸顕)の二つに分かれた。


石光真清は内地からの新聞をようやく受け取る。

8/14日付の新聞である。

「帝都は佛然戦場と化し了おはんぬ」

という見出しが躍っている。

米騒動が勃発していたのだった。

「一部都市、戒厳令」「夜間外出禁止令」・・・。

8/15日の新聞には“報道禁止”の記事が出ていた。

ところが、真清は新聞を見ていて我が目を疑った。

シベリア出兵の話しが一行も出ていない

寺内正毅内閣はその後責任を取って総辞職、

後継は初めての政党内閣である原敬が首相となった。


薄氷の勝利とは云へ、日露戦争に勝った後の日本はようやく大国の一員になれたという自信とともに、

明治維新からずっと続いていた富国強兵からの緊張感から解放され、

また第一次世界大戦による好景気もあって、庶民には自由を待ち望み、

自由を謳歌する風潮は街々に喧伝され人々の賑わいとなった。

反軍思想が高まってくる。社会思想ストライキとなって大企業を襲った。

政府の中にも反対勢力はあって、軍事予算は請求しにくい状況へとなっていった。


明確な国家戦略というものに欠けていた。

英仏、独墺、オーストリアからの独立を願うチェコスロバキア、米国、それにロシア革命――。

民族自決や、革命に対する不干渉主義などもあったが、

片方ではシベリアに存するさまざまな独立を願う勢力に莫大な支援を、

それもあっちへ支援したり、こっちへ支援したり定まりなく、

日本自身は南下するロシアに対して緩衝地帯を設けたい程度の考えであったらしいが、

いずれの列強も時代認識に欠け、呉越同舟の思いに過ぎなかったのだ。


ブラゴベンチェンスクムーヒン政権はたちまち行き詰っていく。

真清が訪れると喜んで迎えてくれるのだが、眼にはかっての精彩がない。

髭面で服装も乱れている。焦燥感が言葉の端々にも出てくる。

政権を取ってから、一度となく風呂にも入ってない、全く自宅にも帰ることなく、

この政庁で寝起きしているということだった。

3/12日中の戦闘中にコザック国立銀行の金庫の金貨、砂金、紙幣は全部黒河に運んで、

ロシア領事館に保管されてしまっていた。

中国商人も農家も品物や農作物の供出を渋る。

インフレは激しくなる一方で配給システムは機能せず、

コルホーズ(集団共同農場)といわれたところで、

朝鮮族のように親子三代にわたって荒地を開墾してやって耕作地にしたような家族は

それに従いようもないことだった。

この時期、シベリアはロシアのまだ植民地に過ぎなく、

地域はそれぞれ独自の市政府などによって運営されていた。

シベリアは途方もなく広大で、この頃この地域に住む人々の多くは文盲に近い民だった。

いずれにせよ通貨が窮渇すれば、職員の給料さえ払えない。

辛うじて流通していた紙幣は、

ロマノフスキー紙幣(帝政時代)、

ケレンスキー紙幣(第一次革命時代)、

ムーヒンスキー紙幣(ムーヒン)・・・。

しかし、裏づけのない紙幣はただの紙切れには違いない。


11/16日、ついに米国務長官ランシング通牒が手交される。

「革命に悩みつつあるロシアの援助するのではなく

その独占的行為は眼に余るものがあり――」。

米国は日本軍の跳梁跋扈に神経を尖らせ、これに反対した。

実際、日本軍の中には後方治安、居留民の保護とは名ばかりで、

“旅の恥は掻き捨て”とばかり、土足で上がり、略奪する輩やからも大勢見受けられたのだった。

何しろここまで進出するのに、まだ何一つ戦いらしい戦いさえないのだから。

目的も意味さえはっきりしない戦いとはかくのごとく規律も不明になるのである。

真清の心痛はいかばかりか・・・。


明らかに、平静を装っていても、明日手術ということで内心は昂ぶっていたのだ。

石光真清の本を一気に終いまで読んでしまう。

9:00を回った。消灯を過ぎてもしばらくは寝付けない。

徒然なるままに句を書き連ねる。


秋となり(隣り)人の鼾と手術前

病室に屁も出て女人笑ふかな

スリッパの足音流す夜や医院

消灯や寝て待つ身にもキリギリス

病院は色々な音に満ち満ちているのだ。

入院やみなさまざまな家にあり

この病室は大腸がん、胃がん、喉頭がん、直腸がんなどなどである。

ご家族の方が出入りする。ありがたいことではある。

一人ぼっちだったらどんなことになるんだらう。