五の字から――

季節に抱きとめられて・・・・・
いいですねえ

水戸、偕楽園の白いの、紅いの、黄色いの
あっちにちらほら、こっちにちらほら

園内の近代美術館
安田靭彦展で
額田女王、物部守屋大連、坂上田村麻呂、・・・
を見る
イメージがわく。
アテルイのイメージが出ない

「亭主の好きな赤烏帽子」-あてるい
阿弖流為(あてるい)
こんな武人だったんたらうね。
大男、刺青あり・・・

「三国志」魏書に230-40年頃
「今、倭の水人すいじん好んで沈没して、魚蛤ぎょこうを捕る。
文身ぶんしんして、亦た以って大魚水禽を厭く。
後、稍やや以って飾りと為す」
刺青をするのは大きな魚や気性の激しい鳥の危害を避けるためである。
文身―身体の不浄を祓い清める。
身体に図柄や模様を彫り付けたり、塗り込めたりする

1871年<北海道アイヌ規正法>女性の刺青禁止、男性の耳輪禁止。
土地の開墾、日本語習得の徹底。
1872年<旧土人保護法>これは1897年まで続く。

清水の寺の辺りの桜咲く桜花散る阿弖流為の墓
坂上田村麻呂はよほど慙愧の念に耐えなかったのだ。
802年、胆沢城に阿弖流為の投降。
その前の長い戦いの間、それから都への道々、
友情めいた気持ち、相手を尊敬したたへる気持ちも当然あったらう。
再度阿弖流為の助命を嘆願するも阿弖流為は処刑に。
一説では阿弖流為は地に埋められ、首だけ出され、
それを通行人に竹のノコギリで引かせて殺した、とも云ふ。
清水寺にもお墓というか石が置かれている。
観音信仰に帰依した坂上田村麻呂は
798年頃から清水寺の建立に着手、観音さまを祀り脇侍に
地蔵菩薩と毘沙門天を祀った。
810年、田村麻呂は寺地を賜り、
嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺となった。
終生盟友阿弖流為のことを祈ったに違いない。

桓武天皇の皇位継承につぐ様々な暗い事件や、
ようやくなった平安京遷都(794年)、
怨霊思想が都人に根強く残った。
797年、空海がたった24歳で「三教指帰さんごうしいき」を著すなど、
(儒教、道教に対して仏教の優位性を説く)
世は混沌としていたのだ。

智笑