日本人は古来より現代においても野蛮人と見られています。特に古来より日本人をよく知っている東アジアの国々ではこの傾向が顕著です。当の日本人はそんなこと知りません。現代では先進国の仲間入りを果たし、ノーベル賞もほぼ毎年取っている文明国だと信じています。

 ですが、実は欧米諸国からもそのように見られているのが実情です。世界の人々には日本人は何をしでかすかわからない不気味な存在に映っているようです。これは世界史を見ても納得できます。第二次世界大戦では世界帝国アメリカに宣戦布告をしました。日露戦争では覇権国家ロシアに喧嘩を売りました。その前には眠れる獅子・清帝国に喧嘩を売っています。大体、三国干渉の時、当時陸軍最強の大ロシア帝国相手に臥薪嘗胆とか頭おかしいです。

 日本人は亡国の危機となると恐ろしい戦闘国家に変貌します。それ以前に平和な時代が250年(江戸時代)続いていて全国民が戦争など忘れていてもそうなってしまうのです。私はこれを「蜂の巣」現象と捉えています。普段はせっせと蜜を取って働き者の蜂ですが、いざ巣に危機が迫ると総攻撃に走ります。白人帝国主義者たちは眠れる獅子(清)にばかり気を遣って、知らぬ間に蜂の巣(日本)をつついてしまったわけです。

 以後、これを教訓として世界では日本人に戦争をさせないための配慮を徹底的に行っているわけです。それは国際原子力機関(IAEA)の調査団の大半が日本の核施設を監視していることや首都東京の周囲を包囲するがごとく米軍基地関連施設が布陣していることでもわかります。

 戦国時代、イエズス会は日本の兵力を利用して明を制圧する計画を立てていました。これと同じことをアメリカがやろうとしているのかもしくは日本を封印しようとしているのか。

 

 この日本=蜂の巣現象は日本古来からの伝統です。白村江の戦いでは惨敗して九州倭国が滅亡してしまいましたが、当時の世界帝国大唐に喧嘩を売れる国はなかなかいないでしょう。近隣の国々が日本を恐れたのは人口もさることながら、その戦いぶりのようです。

白村江の戦いの詳細は資料が少ないのですが、統率された唐の艦隊に向かって400隻で突撃を敢行したそうです。どうやらこの戦い方は日本の伝統のようです。

この頃から日本は軍事大国であったわけですが、日本のことをよく知っている東アジアの国々は日本とは生かさず殺さずナアナアの関係を維持してきました。怒ったら怖い不気味な民族だからです。

 

 そんな折、日本のことをよく知らない世界帝国モンゴル帝国が日本に手を出して痛い目にあっています。

 

 それではご先祖様の隠された歴史を見ていきましょう。

 鎌倉時代後期、1274年と1281年の2回、日本は元と戦っています。いわゆる元寇というやつです。日本の歴史教科書では、元寇で日本が占領されずに助かったのは神風が吹いたからだと未だに教えています。この学説は教育勅語の記紀に則った教科書と全く同じです。しかし、最近歴史再考が盛んになりネットでも元寇の真相を追求する動きが出てきました。

 神風説を広めたのは鎌倉幕府です。防人(サキモリ)を多く募って元寇を退けたものの手柄のある御家人に渡す所領がありません。外国の敵を退けただけでは戦利品は無かったのです。その不満を逸らすために神風説をでっち上げました。鎌倉幕府は元寇の後、所領の増加を見込み報復として元のいる朝鮮半島に攻め込む計画も立案していました。実現されませんでしたが、実行していたら面白いことになったかもしれません。事実、戦後、元は朝鮮半島に対日本防衛ラインを築いています。

 では実際の戦いはどうだったのかというと、既にネットでも広まっているように武士団の奮闘によって元寇は退けられました。フビライが日本攻撃を立案した時、高麗も南宋も反対しました。難あって利あらず。倭寇や白村江の戦いで実際に日本の軍隊と戦った経験のある国は反対したわけです。それでも世界帝国モンゴルの首都を治めるフビライです。極東の小さな島国くらいわけなく落とすつもりであったでしょう。現代人の感覚でいえば日本列島はインド洋の孤島で外部の人間を拒んでいる、北センチネル島の住民みたいなイメージです。

 2度に渡って元寇を断行しますが、九州島すら取れずに撤退します。2度めはさすがに10万人以上の兵力を投入しましたが、世界的な難所・日本海を超えての大兵力の移動は当時はかなり難しかったでしょう。この遠征の無理ゲーな所は15万の兵力程度では日本列島を制圧することは不可能だったという点です。実際、2度に渡る元寇で戦ったのはほとんど九州の兵でした。2度めの元寇の時、中国地方の兵を率いて宇都宮貞綱が九州に向かっていましたがその前に元軍は撤退してしまいます。このときの宇都宮氏の兵力が約6万といわれていますから残りの近畿・関東・東北の兵力を考えればこの森林の山国を制圧するのに15万程度では不可能なのがわかります。日本の歴史上最も野蛮な時代で源平合戦終了の時、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすため奥州征伐に向かわせた兵力は20万といわれています。

 

元寇が無茶な計画だった理由は多く挙げられます。

第一に季節によっては荒れ狂う日本海を渡海しなければならないこと。これは兵力や兵量などの戦略物資の補充が非常に難しくなります。次に日本列島は山や森林だらけで平野の戦場が少ないこと。現代でも国土は7割弱が森林です。フィンランドに次ぐ世界2位。これでは大陸特有の騎兵戦術も戦車戦術も使えません。大陸の軍は兵科が日本列島に適していない上、ジャパンオリジナル兵科の重装弓騎兵とかいう聞いたこともない侍大将が相手でした。これは馬で弓矢の射程距離まで駆けて行って弓矢を放ってすぐ下がる。を繰り返す戦術です。弱ったところをジャパンオリジナルの日本刀でバッサリです。日本兵の突撃とはこの攻撃をいいます。慣れない大陸兵は手を焼いたことでしょう。

次に人口の問題です。当時の日本列島の正確な人口は分かりませんが、鎌倉時代後期の資料で約800万人とされています。ナチスドイツ末期の徴兵率で最大5%ですから鎌倉幕府後期の日本全体で約40万人が動員可能です。最大兵力で戦ったバグダードの包囲戦でのモンゴル軍は約12万、イスラム軍約5万ですから厳しいですね。

ちなみに大戦末期、無条件降伏時の日本軍の国内兵力は約300万人だったといわれています。米軍が本土上陸戦を避けて天皇を利用した理由がわかります。

 

 日本兵がいかに野蛮だったかはネット上でも面白おかしく語られていますので検索してご覧になるといいでしょう。

 一部を紹介しますと、日本軍の戦術はほぼ突撃しかなかったこと。人質や大将首をかざすと取り返すために突撃してくること(文明人は攻撃しない)。テツハウ(砲弾)の音を聴くと覚醒して突撃してくること(文明人は怯える。多分太鼓の鼓舞と勘違いしてる)。海戦でも小舟で突撃してくること(海戦では弓矢戦が常識)。鎌倉にはさらに野蛮な坂東武士が控えていたこと。などなどです。

 あまり知られていませんが、モンゴル帝国は陸続きの高麗を滅ぼすのに30年かかっています。海の向こうの日本列島を制圧するにはそれ以上の期間が必要なので、無理ゲーだったことがわかります。

 鎌倉幕府は元の正式な使者の首を刎ねるという非常識な行為を行いました。これは現代で言えばアメリカの特使を射殺するぐらいの蛮行です。しかし、鎌倉幕府はモンゴル帝国を退ける自信がありました。白村江の戦いの教訓から、せいぜい失っても九州北部。最終的に鎌倉武士を投入すれば勝てるとの見込みがあったわけです。日本列島の住民の戦闘力はかなり強いです。まだ北海道が幕府に与していない頃、北海道・樺太アイヌの兵力がウラジオストクあたりに頻繁に出兵し荒らし回った記録があります。これに業を煮やしたモンゴル帝国がアジア東北部に対アイヌ防護拠点を築いていたほどです。

 時は下って戦国時代、豊臣秀吉はキリシタン禁止令を出し、徳川家康は鎖国を断行しました。

 当時の覇権国スペイン・ポルトガルはキリスト教を流布して反乱を起こさせ植民地にするという世界戦略を行っていましたが、日本では通用しませんでした。日本の武力が高かったためです。ちなみにこの戦略を現代で見ればキリスト教は民主主義にあたるでしょう。王国や共産国からすれば民主主義は植民地の先遣隊のようなものです。

 家康の鎖国で困ったのは当時の世界帝国オランダでした。オランダは東南アジアに植民地を持ち、その運営の警護や侵略に日本の傭兵を使っていました。大英帝国が植民地侵略にグルカ兵を使ったのと同じことです。日本兵は世界でも類を見ない刀を持ち、縦横無尽に戦場をかき回したそうです。

 家康が鎖国に踏み切る時、重臣たちは心配して忠告しました。そんなことをしたら諸外国が攻め込んでくる。と、ところが家康は言い切ったそうです。いわく「返り討ちにしてやる」と。

 戦国時代を乗り切った神君家康公ならではの自信であり、その根拠が日本列島の地理的条件と侍たちの軍事力だったのでしょう。

 こんな難所だらけの日本列島を占領統治できたアメリカは大したものだとしみじみ思います。