母と見舞った際、2人で両側に座って父を見ていたら、父がずっと私の方ばかりに顔を向けていたことがある。

あれは父が逝く2日前のこと。

「お父さん、カバ太郎の方ばかり見ているね」と母が言ったが。

あの時父は私に何か伝えたいことがあったのだろうか?

あったとしたら、一体それは何だったのだろう?何を私に伝えたかったのだろう?

 

その時は静かに休ませたくて、あえて聞こうとしなかったけれど。

何故あの時聞いてみなかったのかとそれも今になって悔やまれる...

 

でも一番悔やまれるのは、やっぱりヒートテックソックスと手袋が間に合わなかったこと。

手足が冷たいまま、眠れない苦しみを和らげてやれないままで逝かせてしまったことが、今もおりのように胸に残ってしまっている。

苦しいままで逝かせてしまったことが悔やまれてならない。

 

偶然だったが、父が危ないという報せを受けた際、最も病院の近くにいたのが私だった。

実は前日から安ホテルに逃げていたのだ。

(逃げていたって...DVにでも遭ったので?)

そういう相手はいませんが...

 

実はその頃体調が最悪だった。

父には申し訳ないが、父の件が起きたのは私にとってタイミング的に最悪の時期だった。

 

コロナ禍では私も大打撃を受けた方。

しかもコロナ禍でリモートワークのテクノロジーが進化する中、恐らくAIの進化も加速度的に早まるから、コロナが収束しても以前の受注量は望めないだろうことは目に見えている。

もう一つ柱になるものを、と元々の仕事を細々とやりつつ、あまり稼げそうにはないがある意味理想的な(?)仕事を見つけ、その訓練と準備を少しずつ行っていた。

(↑何が何でも嫌いなことはやりたくない)

そんなことないって。

元々の仕事だってそんなに好きじゃないし。

食うためには仕方がない。

それに新しい仕事は辿り着くまでがかなり厄介で、好きでもなきゃ途中で諦めてた可能性が高い。

それだって好きなことばかりじゃないし、今もまだ一部にしか辿り着けてない。

 

ただ秋には例年ちょっとしたプロジェクトがあり、昨年も規模を縮小したそれが入った為、新しい仕事の準備は一端中断し、プロジェクト後既に寿命のデスクトップPCを買い替えて後一気に準備を進める、という算段を立てていた。

(金もないのにPCの買い替えなんぞするな)

しなきゃ壊れてたわい。

それも結局2度目に戻ってから。

その間、いつ壊れるかとびくびくしながら使ってたんだから。

 

まぁそういうわけできっちり計画を立てて進めていたのだが...

父の入院の一報が届いたのはそのプロジェクトの最中だった。

 

何とか無理くり算段つけて一端あちらへ赴き、戻ってから仕上げて事後処理も済ませ、2度目の神奈川行き。

今度はそう遠くはないであろう父の死をも視野に入れねばならず、長期になるしいつ戻れるかも不明。

新しい仕事が遅れるのはもう仕方がないとして、実家でもできる限りのことをしようと色々算段を付け、必要なものを実家に届くように発注したり、また気候が違い過ぎるからこちらに戻る時の為の冬物を段ボールに詰めて発送したり...等々出立のギリギリ前日まで色々色々やってから夜中までかかって残りの荷造り。

翌日安い便に乗る為に無理矢理早起きをしてクソ重いスーツケースが点字ブロックに引っかかる度泣きたくなるほどの思いをして実家に辿り着いた時には、こちらが病気になりそうな状態だった。

なんだけど...

 

母という人は姉に対しては気遣いをするが私に関してはあまり気にかけないところがある。

手術をするまで姉が若干心臓が弱かったせいもあるのだと思うが。

と言ってもその手術って10歳頃なんだけど。

出てくるまでは「父の死後もしばらくは母のそばにいよう」とか「母と2人であれを話してこれをやって...」などと勝手に考えていたが、母には母の出来上がってしまった生活がある。

 

元々外に出るのが好きな人だったのがコロナのせいで外出が極端に減り、その分もあってか家にいる時は四六時中テレビをつけっ放し。

それも耳が遠くなってきた分、大音量で。

敷地が広めなのと神奈川県のくせに二重窓なのとで外には全然聞こえないのだけど。

家の中にいる私だけが被害(?)者。

父がいなくなって母も寂しいのだからと我慢したが。

色々しみじみと話せる状態ではない。

「...」

 

そんなこんなでこちらは体調が悪化する一方。

しかも母はひ孫弟子までいる今も現役バリバリの生け花の先生で、コロナが危ないからやめとけというのに休みになっていないお稽古に出かけることがまだある。

私が「もう限界」となるほど頭ガンガンで死ぬ思いだったのがそのお稽古の前日。

普段は9時に寝てしまうくせに、翌日忙しいからとこの日だけは夜中までもガタガタ何かやっている。

「このクソばばー!」と怒鳴りたくてもその力さえなく、翌日とりあえず体調戻るまで、と安ホテルに避難したのだった。

まさかその翌日父とのお別れが来るとは夢にも思わず...

 

ホテルを探す際、できれば父の病院の近く、と探したおかげで急を受けて一番に駆けつけることができたのだったが...

実をいうと、そんなに切羽詰まって駆け付けたわけでもなかった。

 

父は私がまだ北海道から到着する前にも1度峠を迎えている。

危ないからと夜中に姉の娘2人を含む家族全員が病院に駆けつけたのだった。

でもその時も回復したのだ。

「今回もきっと大丈夫さー」とまたしても根拠のない思い込みが頭をもたげていた。

とりあえずヒートテックソックスと手袋は後回しにしてまず病院へ行き、後で買ってからまた行こう、などと考えていたぐらいだ。

だから...

 

病室に飛び込んでまず目に入ったモニターの前で立ちすくんでしまった...