蛇口を締めなくちゃ犬猫問題は解決しない!
私は、ずーっとそう思っているし、今後も変わらず、最重要事項にちがいない、
という前提のもと、書きます。
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犬猫が殺処分されている。
その事実だけで、新たに生み出すことがいかにこの時代の社会問題に逆行しているか。残酷なことか。
そして、一生懸命に蛇口を締めている人たちがいる。その人たちが保護・譲渡もしている。
保護譲渡だけで問題を解決しようとするのは確かに愚の骨頂。馬鹿げているし、これもまた逆行した間違ったやり方だし、根本解決に至らない。
けれども、生まれ落ちた命が、「死にたくない、生きたいんだ」と、死に直面して苦しんでいる。
だから保護譲渡は現状必要不可欠。
そういう子たちのことには目をつむり、保護譲渡が持ち上げられることの弊害にばかり目を向けて、「蛇口を締めることで解決しないとダメなんだ」「キリのないことをいつまでやってるの?」と言ってしまうのは私は違うと思う。
全体を見通した冷静な意見であるという認識は変わらない。でも今にも死んでしまう子にとっては冷酷だ。どうぶつを数字でしか見ていないのではないかとすら思ってしまう。
なぜ、いつもこれらが対極のものとなってしまうのか。
(そういう意味ではないのかもしれないけれども)
やはり多すぎる保護対象の犬猫を、団体もボラもたくさんたくさん抱え込む。今ここで抱える選択をしなければ死んでしまうからだ。
動物愛護は、広く人の心にあってほしい、思いやりの気持ちであるとは思うが、現時点においては更に深い層で社会問題解決に向けて動かねば、思いやりどころではない殺戮の世界が広がっている。
その道の先に根本解決のない、愛護やどうぶつでビジネスしようという者たちは論外なのだが、
そういう輩と、蛇口を締めながら(そのために)たくさん抱え込む人たちとが一緒くたにされ批判されている印象を、どうしても受けてしまう。
印象であって事実ではまさかなかろうけれども、印象というのが思想に波及していくものであることはみんな経験的にご存知のはず。
私は蛇口を締める活動をした結果たくさんのどうぶつを抱えている人たちをいっぱい知っている。
そういう人まで批判されているような気分になり、それはとてもつらい。というか、怒りを覚える。
勝手にそういう印象で受け取ってしまうからなのだが。
保護譲渡のすべてをdisり始めたら 今、死ぬ命 は救えない。
私はそれはいやだ。避けたい。
今までもこれからも犠牲が絶えないまま、未来の解決だけを目指すのは。
目先のことだけにとらわれているという意見も散見されるが、助けられる命ならば助けたい。
きちんとやっている人たちは、蛇口を締めながら助けているし、それをしながら啓蒙している。
一般の人に知ってもらう糸口になるのならば、芸能人の保護猫を迎えたニュースだって大歓迎だ。
深く知るにはまず浅瀬から、だと思うから。
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蛇口を締めることの最重要性を訴える話には100%同意したいのだけれども、
どうしてか保護譲渡は悪とする図式が浮かび上がってしまう印象…を受けるやりとりを最近見かけるので、
今思うことを書きました。
避妊去勢をしない保護譲渡、
保護譲渡だけによる殺処分ゼロ対策、
そういったものには反対の立場であることは明言しておきます。
そして、保護譲渡の大変さ、高いコスト、リスク、慢性的な精神的・肉体的疲労…も少しは理解しているつもりです。