気仙沼・陸前高田へのバスツアー 号外
 旅ジャーナル編集部編集長の佐々木彩乃です。
 今回は、真面目な内容です。この度、被災地を訪れる機会をいただき、行ってまいりました。実際の空気を直に受けた筆者の感じたもの、思い、そして伝えたい気持ちを文章に起こしました。読んでいただけると幸いです。

はじめに
 2011年3月11日、日本中が震撼させられた出来事があった。いうまでもなくそれは、東日本大震災である。地震自体の被害とともに、津波の被害が甚大なものだった。
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 私は震災から一年以上が経過した2012年6月30日、やっと、この被災した地を訪れた。震災直後から自分にできることはないだろうかと思い、何度も行こうとしていたのだが結局それがかなわぬままであった。
 今回、訪ねることができたのは、隼人さん、ジョニーさんやみほちゃんをはじめとする同年代の人たちが企画した被災地をめぐるバスツアーに参加させてもらったからだった。
 このバスツアーが行われた背景には何人もの熱い人たちの力がこめられている。その契機となったのは隼人さんの講演会だった。

 震災直後に食糧支援に向かった隼人さんは被災地の様子を見て、「ボランティアとかそういうことじゃなくてこれはなんとかしなければいけないと思った」そうだ。そして、生活の拠点を気仙沼に移して今も活動を続けている。
 その隼人さんが地元池袋で講演を行った際に「とにかく被災地に足を運んで、見て、聞いて、感じてください」と訴えたという。すると、そこにいた旅行会社に勤めるジョニーさんが「ツアーしましょう」と提案し、それが実現したのが今回のツアーなのだそうだ。
 
 ツアー参加者の中には私と同じように初めて訪れるという人も少なくなかった。でもみんな“なにかできないか”という気持ちを持っていることを知った。
 
さて、被災地だが、一年以上経った後でも震災の爪あとがありありと残っており、今でも瓦礫の下から遺体が発見されるのだそうだ。
津波の高さをこの目で感じたとき、被害状況の凄まじさを目の当たりにしたとき、被災者の言葉を聞いたとき、何度もとてもやりきれない気持ちになった。正直、私は被災地を実際に訪れることに対してそういう気持ちになってしまうだろうという不安があった。
だが、暗い気持ちを吹き飛ばせるほど、そこには希望があった。仲間がいた。そして天気にも恵まれた。決して楽観的に震災の跡を見ることはできないが、希望や人とのつながりを再認識するような見方ができるツアーだった。
これを実現させた人たち、本当にすごい。
 
 地元の人たちがあたたかく笑顔で迎えてくれたことも印象的だった。
 想像を絶するような恐怖や痛み、辛さを抱えている人たちがこんなにも笑顔でがんばっている、そのことがとても心をあたためてくれたし、きっと訪れる人みんながそう感じることと思う。
 そして、なにかできることはないかと思っている私たちに対して素直に要求を伝えてくれることや、バスが発進するまで見送ってくれること、はなしをしてくれること、笑ってくれること、受け入れてくれること、すべて。全部があたたかかった。被災地の人たちも。ツアーのみんなも。
 
 まずは訪れてみることの大事さを、私はとても感じた。
 そこから派生するものは必ずあるから。
 
ジョニーズツアー
 さて。私の参加したツアー、その名も「ジョニーズツアー」というハイカラさ。発起人の名前が起用されているようだが、ジョニーさん風な人を探すも見つけられない。
 夜中の二十四時に池袋を出発。ものすごく大きくて豪華なバスに乗り込む際、明日の昼食メニューを決めるという瞬間的決断力を発揮しつつ、ツアーへの期待感ではちきれそうな胸を抱えて一人で二席分を独占(キャパシティ四〇人のバスを二〇人で使わせてもらったのだ)。しかもかわいい旅のしおり付き。まずはアルコールで乾杯して、自己紹介があって、ひそかになぞだったジョニーさんの存在を確認した(日本人だった!)。
色々な職業・考え方を持つみんなの話はすごく勉強になり、刺激にもなる。
もうすでに更けていた濃い夜はますます深みを増して、いつの間にか眠りに落ちて、朝を迎えた。

気仙沼での一日は、青龍禅寺での朝のお勤めから始まった。
青龍禅寺の和尚さんとご家族と一緒にお経を読み、お焼香をする。ジョニーズツアーの無事を祈ってくれるという一幕も。
そのあと広間をお借りして朝食をいただいた。地元でバーを営む若いご夫婦が作ってくれたごはんのおいしさ!長い一日を始めるための大切なエネルギーチャージ。
地元ガイドさんが、震災で電気が使えなかった時にこのお寺の人たちがろうそくを配ってくれたということを教えてくれた。

バスから見た気仙沼市街地では、津波被害に遭い一階部分がすっぽりなくなってしまったような状態の建物をたくさん目にした。一見すると工事途中のようでもある。正直にいうと、たくさんの人や動物が流されて大きな絶望がそこにはあるのに、それをうまくつかめない自分がいた。唖然としていたのかもしれない。バスから眺める景色は、テレビで見るのと同じ感覚だったのだとも思う。
そこからしばらくバスに揺られた。被害状況などをガイドさんが話してくれる。話すことは当時を思い出さざるを得ないことで辛い作業だと思うのだが、この場所はこういう状況だった、自分はこういう動きをしていた、ということを話してくれた。伝えてもらえることに本当に感謝だ。

陸前高田の“奇跡の一本松”のある場所に降り立った。
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陸前高田は特に大きい津波被害に遭った場所として知られている。建物が立ち並んでいたという場所には建物の痕跡すらなかった。ただ土地が広がっている景色と、そびえる杉林のかなり上の方まで茶色く枯れているさまは波がその高さまで上がったことを表していることを知った感覚は、ものすごく明るいよい天気の下でとても不気味で残酷なものだった。
すぐそばに集積されている瓦礫の山を間近に見てその高さに気が滅入りそうになった。テレビやバスの窓から見ていた瓦礫が、こんなに高く高くいくつも積まれていることをガツンと思い知らされた。
それを黙々と片付ける現場の人たちの中には少しギスギスしている印象の人もいたが、終わりの見えない…どころかまだまだ遺体が発見される可能性がある場所で、苦しい作業をしているのだ。瓦礫受け入れ問題が全国で勃発しているが、そんなことで衝突している場合なのだろうか、という思いがよぎる。
それでも建物の流された跡には草花が生え、紋白蝶が飛んでいた。瓦礫の山にすら草花が生きていた。杜甫が春望の中で云っている「国破山河在」「城春草木深」は、戦争で敗れた後の故郷、それでも自然の姿は変わらずに存在するという、無常さや懐かしさを表している詩であると私は解釈しているのだが、この自然災害の後であってもまた季節がめぐり来て、生命の営みを育んでいこうとしていることにほんの少しでも希望の光を感じずにはいられなかった。
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それから気仙沼へ戻る。復幸マルシェというすてきな仮設商店街を訪れた。みんなが笑顔だし、来た人たちをも笑顔にしてくれる場所だった。おいしいあたりめや『希望ののむヨーグルト』や気仙沼の地酒を購入した。
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希望ののむヨーグルトを買うと、そのお金が地元にバッティングセンターを建てるための資金に充てられるとのことだった。
震災で大切な家族や家を喪った人たち。子どもたち。今、野球場もない。いろんなものをうしなってしまったけれど、野球をやりたいという子どものため、バッティングセンターを建てようとしている大人たち。すてきだな、と思う。
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そこから程近い場所に共徳丸というマグロ遠泳漁船がある。
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出航を明日に控えたあの日、津波によって流されてきたのだ。
ここが四日間の大火事のあった場所だそうだ。水に浮かんだ油で四日間燃え続けた火の威力は、当然遠くに非難している住民たちが、あの寒い冬の時期“あたたかかった”と感じたほどだったという。そしてこの巨大漁船まで火が到達していたら…その被害は更に大きかったに違いない。
献花台が設けられていた。みんなで手を合わせる。若い女の子のものだったのだろう、デコレートされた携帯電話が置いてあった。胸が張り裂けそうになった。
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船の下で車がつぶれている。
周りの家々は床の基板しか残っておらず、私は誰かが大事に暮らしていたと思われるその家の中に足を踏み入れた。囲いすら、もうない家だったが、誰かの生活を土足で踏んでいる気がして心が痛かった。
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仮設住宅にもうかがった。
そこで聞いたお話は、主に子どもたちのこと、独居老人のこと、生活のこと、様々な問題が組み合わさって、また別の問題を生んでいることなどについてだった。
その中の一部を抜粋する(お話をうかがった方の一ご意見である)。
震災の影響で被災地の学校では勉強が遅れているので、行政からの指示により時間割を増やしたり休みの日返上で授業をすることで遅れを取り戻すようにしたという。しかし、震災のトラウマから少しの揺れに恐怖を感じたり、夜眠れなかったりする子どもたちもいる。夜眠れないことを、同じように苦しんでいる親にすら相談できずにいる子どもが、睡眠不足のまま登校して授業を受けても内容を完全に理解できないまま先へ進まれてしまう場合がある。そのうちに勉強の遅れから学校へ行きたくなくなってしまう子が出てきてしまうというケースがある。
それに対して対策案を提出しているが、行政の問題・家庭の問題・学校の問題などがあり実現が難しいとのこと。

ツアー参加者からは自分たちの専門分野・得意分野から具体的に支援できそうな提案があり、今後それが東京と気仙沼をつなぐ新たな線となるといいな、と感じた。

お話の途中で地震があった。
その方はすぐさま子どもたちに電話をかけていた。
トラウマを抱えている子たちに対し、気にかけている存在がいるよというメッセージを発信することはそれだけで安心材料になるしとても大事とおっしゃっていた。

 夜、気仙沼の温泉(お湯がしょっぱい!!)に浸かりからだをあたためて、気仙沼横丁へ。提灯の並んだ手作りな雰囲気があふれる横丁。おいしい地酒を呑みながらうまいものを食べて長い一日に思いを馳せた。
 そうそう!隼人さんが気仙沼で起業したお肉屋さんが、お肉を納品しているお店『スカイピア』でいただいたカレーライスもとてもおいしかった。町を一望できる景色も最高だった。
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おわりに
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 場違いな共徳丸。震災を思い出すから撤去してほしいという人たちもいれば、震災のことを忘れないために置いておくべきだという人もいる。被災地・気仙沼の象徴として。
これに限った話ではなく、多くの場面で様々な意見がある。
今回出会った人たちは笑顔だったけれど、本当は笑顔になれない人たちだってきっといっぱいいる。家から出られなかったり、東京から来た人間を受け入れたくなんかないと思う人だっているだろうと思う。
うかがった話が一つの局面に過ぎないということだってありえるし、見て感じたことが受け取り方や伝え方によっては間違いになってしまう場合だってある。
リスクはたくさんあるのだ。
だけど、人とのつながりが復興や笑顔にもつながっていくことをとても感じた。しかもそれが重要な位置を占めている。
恐怖や思い出したくないものを払拭はできなくても、強さに変える力を生むことができるのだということも感じた。

震災、そして津波によってなくなったものはとても多い。けれども、地元の人たちはその地点からの再スタートをすでに切っている。それにはすごくパワーが必要で、そのためには人とのつながりや支援がやはりとても必要だと思った。
そして笑顔の力。
そういうものを私は感じて、これからもつながりを大事にしたいと思った。



とりあえずはこうして文章に起こして身近な人に伝えていこうと考えました。
読んでくださってありがとうございました。

そして、今回出会ってくれたすべての人たち、ありがとうございます。
本当に、みんなでがんばっていきましょう!

最後になりましたが、お名前を出させていただくことを快諾してくださった、隼人さん、ジョニーさん、みほちゃん、ありがとうございました。お名前は出していませんが、三人とともに実行委員をされている素晴らしい面々(エピソードを書きたいけれど、原稿が何枚もになってしまいそうです!)。他にすてきな仲間たちが十七人。それに、現地ガイドさん、バーの人たち、バスの運転手さん、復興マルシェの人たち、青龍禅寺の和尚さんとご家族、書ききれない人もいます。みなみなさまに感謝の気持ちでいっぱいです。


平成二十四年七月八日完成
佐々木彩乃