私の母は、生きるというテーマにおいての師であります。


祖父が満州鉄道の幹部だった関係で、戦時中一家で満州に移住した。


祖父の下には何百人もの部下がおり、その家族の生活にも責任がある。


この祖父、豪傑そのものだった。

戦局危うい頃、満州に南下してきたロシア兵が押しかけると、一喝して追い返したという。ケンカも滅多やたら強かったらしい。


それでも一家は貧乏の極み


マイナス30度の酷寒の朝、娘たちは納豆売りに路頭に立たねばならなかったと言う。

この頃の寒さを語るのに分かりやすいエピソードがある。


後年小説同人誌会に入り、せっせと自分史のようなものを書いていた母 


ある日憤怒の表情で帰宅した。


彼女の訴えはこうだ


満州の朝の納豆売り


酷寒の中云々と記したくだりを

厳寒と添削されたというのだ


講師の意図はぃまも不明だが


厳寒なんて表現じゃ甘いんだよ!


酷い程の寒さなんだ、と。


納得行かない時には火がつく人でもあった


母は次女だったが、上の姉は十代で結核で亡くなる。立場上母が長女となる。7人兄弟の長女。


勢い、強くなる。満州の厳しい環境も、貧しさも、逆に彼女のエネルギーとなる。


逆境に強い


これは稀有なる才能だと私は息子ながらに思うのだ。


そして終戦となるのだが


祖父の立場上、引揚げ船には当然部下たちの家族を優先して乗せる。


母たちはほぼ最後の引揚げ船に辛くも乗り込んだそうだ。


後に中国残留孤児がテレビで親と対面する番組が放映されていた。


母があの人たちになっていたかも知れないのだ。


そうであるなら、今私はここに居ない。

こんな駄文を書くこともなかったという事だ。


戦後母は婦人警官、そして公務員試験に合格し、父と職場結婚となる。 


正義感、努力家、そんな言葉がピタリとハマる母だった。


そんな太陽のような母が41歳という若さで倒れる。


脳内出血


左半身麻痺となる

しかし、


ここからが母の人生の真骨頂だ


辛いリハビリを乗り越えて、右半身だけで家事をやり、公務員に復帰するのだ。


これには家族みんなが度肝を抜かれる。


「あんたたちが大きくなるまで絶対にへこたれないって誓ったんだよ亅


確かに3人の男を育てたのは母の力だけではない。


無論父も苦労した。障害者の妻を支えながら公務員を勤め上げた。


祖母の庇護も私には絶対に必用だった。


母は片手で油絵も描くし、小説も書く。

勉強して漢字検定の1級も取った。


不自由でも、いつも何かに挑戦している人だった。


障害者歴33年をもって旅立ったあの偉大なる母


遺言書にはあっさりと


真っ当に生きなさい


ただ一言でした。

波乱万丈生きてきて、シンプルで強烈な遺言です。


カッコイイなお母ちゃん


がばいよプンプングー

ajira2002のmy Pick