特定疾患系女子[再生不良性貧血] -2ページ目

特定疾患系女子[再生不良性貧血]

2011年末、突然再生不良性貧血であることがわかり、緊急入院。
特定疾患系女子となった27歳。
2012年1月にATG、現在自宅療養で絶賛経過観察中。
病気になって、無職になった!
夏までの社会復帰が目標。

斉藤和義が好きである。
ドラマの主題歌などで「流行ったから好きなんじゃない」と
言うつもりはないが、結構前から好きである。

きっかけは、あるロックフェスでのライブで聴いた
「歌うたいのバラッド」という楽曲。
斉藤和義の代表曲だ。



感動して、ライブなのに棒立ちで、微動だにできなかったのを覚えている。

そもそも大好きだったこの歌が、より大切なものとなる出来事があった。

わたしがAAになって緊急入院したのが、昨年の12月。
そのとき、わたしは仕事で大きな新年パーティを取り仕切る準備をしていた。
会場の手配、段取り、ゲストの選定と招待…
それらをだいたい済ませて、あとは当日の余興をどうする?という時に入院が決まった。
もちろん、そのパーティには、参加できなかった。
そのときは、自分のことで精一杯で、パーティどころではなかったのだが…

最近になって、そのパーティに出席したゲストから、その内容を初めて聞いた。
余興として、バンド演奏のコーナーがあったのだそうだ。
歌のべらぼうにうまい人がいるので、それ自体は不思議ではない。
その人は、得意の何曲かを披露した後、

「実は今日、ここに一番来たかった人、
ここに一番いてほしかった人がいません。
その人のために歌います。」

こう言って、斉藤和義の「歌うたいのバラッド」を歌いあげた。

この歌をプレゼントしてくれた人たちは、私に会うたびに
「良かったね、本当に良かったね」と言ってくれる。

この話を教えてくれた人も、この夜の「歌うたいのバラッド」を聞いて
わたしのことを気にかけてくれていたらしい。

知らないところで、祈られていた。

そう思うと、いまここに居られることは
そういう「祈り」によるものだと信じたくなる。




私がAAになってから、母方のじいさんとばあちゃんが立て続けに亡くなった。
なにか、意味を探さずにいられなかった。

そしていま漠然と、いい意味で、
「死ぬことはこわくない」
ということを感じている。

3月にじいさんを亡くしたとき、葬儀には出れなかったけれど遺体には会えた。
対面したとき、正直「こわい」と思った。
じっと、ただ見ていると、横にいた母がじいさんの顔を撫でた。
その手が、とても優しくて、いままで見たどんな手より優しくて。
その時、死に対する気持ちが少し変わった、のだと思う。

ばあちゃんの時は葬儀にも参加できて、優しい手をたくさん見た。
私自身も、母のようにはできなかったけど、ばあちゃんの顔を撫でることができた。

死は、意外と優しい。

いますぐ死ぬような病気じゃないとわかっていても、
やっぱり以前より濃く感じる死のこと、そして生きるということ。
じいさんとばあちゃんは、わたしにヒントをくれたのかな。
祖母が、亡くなった。

25日に、もって一週間との連絡を受けて、すぐにばあちゃんのところに行った。
これからみんなで泊まり込みだね、とスケジュールを組んだ。
その夜、息を引き取った。
ほんとうに、「糸がきれるよう」だったらしい。

介護が必要になってから長かったからか、
みんな覚悟はできていた、のかもしれない。
祖父の時のような戸惑いは、誰にも見られない。

祖父が亡くなったのはこの3月。
それから100日あまりで祖母が逝ってしまった。

祖父が亡くなった時、退院したての易
感染女だったわたしは、
お通夜や葬儀にでられなかった。
じいさんは、生前顔を合わせるたびに

「弔辞を読んでくれ、10万円やるから」

とわたしに言った。
わたしは、10万じゃ安いね、といつも笑った。

じいさんの願いは叶えてやれなかったから、
ばあちゃんにはできるだけのことをしよう。

コメントいただいたみなさん、すみません。
落ち着いたらお返しします。