SとMという世界があります。
SとMは互いの信頼関係があってはじめて成立する世界です。
一般的にSはsadist、Mはmasochistと思われています。
でもSはMの気持ちを理解し、MはSの気持ちを理解することでその関係は成立します。
つまり、Sはsadistでありながらslaveでもあり、Mはmasochistでありながらmasterでもあるのです。
そ、そうですよ。
腸内環境のお話です。
糖尿病関連のとこじゃちょいちょいブームが来ることありますしね。
最近はあんまりそういう話もないのかな?
自分なりのアレを書いておきますよ。
毎度の事ながら「ふーん、そーなんだ」くらいで読むのが正しい読み方です。
フィクションですからここで読んだことをドヤ顔でどっかで言ったりしたら恥かくよ。
まず人間てなんだろうって考えてみましょう。
たまにそんなこと考えること、ありませんか?
まあ、まずは人間に限らず動物ってなんだろう、からですね。
なんだと思います?
自分はウンコだと思ってます。
動き回って食べるうんこ。
それが動物。
なんて昔のひとは言いました。
これは人間はか弱い存在だが、頭脳を使うことができる存在であるという意味ですね。
これ自体に間違いはないと思います。
でも考える、ということ自体は他の動物も持っています。
なぜ、この考えるという必要があるか、というその根源は食欲にあります。
食欲を満たすために手段を考える。
これが脳が持っている本来的な役割です。
そしてそれが他の動物に比べて発達が著しかったのが人間なのでしょう。
「腸は第二の脳」なんていうことを言う人もいます。
これは違うと思っています。
逆なんです。
「脳は第二の腸」なんです。
いろんな動物を考えてみましょう。
例えばクラゲ。
クラゲはプカプカ浮いて食べるだけの存在です。
クラゲって実は脳がありません。
心臓とか血管もないんだけどね。
でも腸と呼んで良いような機能はあるんです。
脳がなくても生きていける動物はいても、全ての動物に腸と呼べる機関はあるんです。
これは考えてみたら当然ですよね。
単細胞生物を考えればその細胞の機能が脳に近いはずがありません。
活動するためにエネルギーを補給する、腸の機能によって成り立っています。
それを腸と呼ぶかはまた別の話ですが。
人間だっていろんな機器を必要とはするけど、脳死という状態は有り得ますよね。
でも腸が死んだ場合、放射能被曝なんかで起こり得るんですが、腸死となった場合の延命措置というのは自分が知る限り無いです。
自分は医療関係のひとじゃないからもしかしたらなんかあるのかもしんないけどね。
つまり、動物において、その本体は脳ではなく腸なのです。
もちろん脳だって最重要な組織ですけどね。
それでも番手的には二番と言えるでしょう。
腸ありきで脳が生まれたと言えます。
マウスを使った実験でちょっとおもしろい実験があります。
腸内細菌のない無菌マウスを作ったのです。
このマウスがどんな行動をするかを観察したのです。
互いの匂いを嗅ぎ合うような社会的行動、自分の毛繕いをするような非社会的行動。
このふたつに行動を分けると無菌マウスでは社会的行動が優位に低下したのです。
要は他人に無関心てことですね。
つまり、腸の環境がその無菌マウスの性格さえ支配した、ということです。
人間でこんな実験は当然できはしないし許されないでしょうけど、たぶん似たような結果が出るんだろうなと思います。
ほかにも便移植により肥満度が変わる、なんて実験もあったりします。
おもしろいよね。
いとおかしよね。
つまりは腸からのメッセージに従って食べたいものを脳が(あれば)決定して手足を動かして食物を腸にお届けする。
これが動物です。
そして必要なものを体に取り込み、体に不要なものはうんこにして外に出す。
外に出すか、中に残すかの違いは何なのか。
これは大した違いじゃないです。
身体に必要か、不要か、この一点のみ。
便移植により肥満度が変わる、ということはこの振り分けも腸内環境の影響を受けているとわかりますね。
不要なものはうんこと呼ばれます。
体に残す必要なものも基は同じものですし、いずれはそれも利用価値がなくなれば新陳代謝として捨てられる。
つまりは身体だってうんこなんです。
しかし、腸に従って動くだけではあまりに原始的すぎです。
そこにこそ知性や知能と呼ばれるものが生まれます。
動物は知能が高くなるに連れて、食欲が満たされていても食べる、という行動を起こします。
水族館にいる魚たち、綺麗ですよね。
大きい魚や小さい魚、いろんな魚がいます。
自然界においては基本的に大きい魚は小さい魚を食べて生きています。
でもアクアリウムで食べあってる姿を見ることってないですよね。
あれは何故か?
おなかいっぱいだからなんです。
エサをたくさんあげると他の魚を食べたりしないんです。
おなかを満たすことであの環境は成り立っているんです。
彼らは食べるのに必要なだけ食べて、必要以上に食べるということをしません。
魚って個体差レベルの多少の大きさの違いはありますけど、そんなにデブなやつっていませんよね。
うちは毎朝ししゃもを食べてるんですが工場で作ったのかなってくらいサイズが同じこともしばしばです。
でも例えば犬や猫、人間なんていうのは食慾が満たされていても食べることがあります。
デブ猫やデブ犬、デブ人間、わりとよく居ますよね。
これは腸が要求するより脳が食べたくなってしまっているから食べてしまっているのです。
要は「お腹が空いてる」のではなく「頭が空いてる」からなのです。
美味しそうな写真で刺激される食欲、匂いや音から刺激される食欲、これらはだいたい「頭が空く」につながるものです。
食べることへの貪欲さ、というのはしばしば人間社会では意地汚さと言われます。
でも生物的に言えば、そこに向けてどうするかという指針に繋がり、向上心があるという性格といえるのでしょう。
人間の本質的な部分、これは先に書いたように腸に由来するわけです。
だから自分の本質を知りたくなれば飢餓状態になってみる、というのもひとつの方法なのでしょう。
腸内細菌による性格コントロールは満腹状態でも見られることですが、飢餓状態であれば本質的な部分が強く顕れるはずです。
例えば飢餓状態で他人に対して怒りやすくなる、であれば社会性を持った菌があるといえます。
無気力になるのであれば社会性に乏しく、菌が不足しているとも言えます。
さらに、満腹状態に復帰したとき、どうなるか。
これによって本質に乗ってる人格性も見えてきます。
例えば、怒りやすかった状態から穏やかになる、ということであれば他人に対する和を以て接することで社会性を確保するフィルターが働いてると言えます。
もし怒りやすいままなら、人格にはその部分のフィルターが働いていないということになります。
これら電気信号によるフィルターがそのひとの性格を形成します。
この電気信号が集まった集合体。
これが魂と呼ばれ、腸から切り離されても存在できる状態になれば霊体と呼ばれるんでしょう。
さあ、一気にうさんくさい話になってきましたね。
「おなかすいたー」っていう幽霊ってあんま聞かないですもんね。
幽霊は腸から切り離されたいわば、人間より人間らしい姿と言えるのでしょう。
つまり、霊体がある実体を持った存在においては腸は脳を信頼して、脳は腸を信頼することが必要になります。
それによって成り立っているのが人間であり、腸と脳は切り離せないパートナーなのです。
おなかいっぱいになったら食べるのやめる系の動物と比べるとちょっとめんどくさいとこがあるのです。
人間は考える葦、なんて言われるくらい脳が発達した動物です。
だからこそ、本来の上位である腸よりも脳が上位に立ってしまおうとなりがちな一面があります。
To-Beを考えるならまずはAs-Isを考えることが有効です。
まずは自分て、どんな人間なんだろう?
腸と脳にズレが出てないか?
そこから始めてみるとどんな腸内環境を目指すかっていう有効な道だって見つかりやすいかなって思うのですよ。
そして腸内環境というのは菌にのみ限ったことではないのですが、どうにも世の中の腸活というのは菌にフォーカスを当てることが多かったりします。