

あと、わかりやすくするために黄河を太く描き変えました。
黄河の頭まで表示できて、落ち着いたと思います^^
■黄河と長江をつなぐ「渠」を足しました
三国時代にあった位置を記しています。
渠(キョ)とは、利水のために作られた人工の水路のことです。
自然の川ではありませんが、洪水時に流れる低地や枯れ谷を利用したと考えられます。
参考資料は 『歴史群像シリーズ17 三国志上巻』 です。



ここから、地図制作中に思ったことがいくつかあるので書きます。

今回は、水運(主に渠と海運)に注目しました

南船北馬といわれる理由がわかるようになったらいいな、と思って調べています。
◆渠(運河)
いくつかの資料を見ると、渠によって黄河と長江が繋がっていた、という認識が優勢のようです。
南北には、少なくとも下邳から丹陽にかけて、沼沢地を利用した水路が確立されていました。
東西には、徐州を流れる淮河。その支流をうまく使って、水路が洛陽方面へと続いています。
(安良はこれを、黄河の水量をコントロールするための放水路を兼ねた運河だったのでは、と考えています)
・長江の南にある2本の渠について
1本目の渠(北側):
長江河口域は、潮の干満の影響が大きかったと推測できます。
そこで当地の人々は、呉~太湖~丹陽~水路~皖口に至る渠を整備して、流通の安定を図ったように思うのです。(全長200kmに及ぶ高速道路。直線距離で東京~浜松と等距離!)
こうした経緯で、皖県は商業の窓口を担い、首都建業の上流を守る軍事拠点として発展を遂げたのではないでしょうか。
2本目の渠(南側):
南の渠は、太湖の南西に広がる平原に、水を供給したと思います。水田の運営が江南統治の要だったと思うからです。雑談
寿春の左下は山があって、渠がありません。
しかし安良は、この水路が寿春を中心とした環状線に見えました。(なんとなくの話)
魏呉の争点であり続けた合肥周辺。そのため生活しにくく、人が集まりませんでしたが、うまく統治すれば、寿春はスゴイ都市になり得たのでは・・・
(」゚ロ゚)」<誰が「寿春メトロポリス計画」を発動してたのお!?(笑)
・・・そう見ていると、更に長江の上流はどうだったのか、気になってきました。
鄱陽湖を中心とした平地と益州盆地はだいたい同じ面積なので、独立王国さえ作れるのではないかなーとか妄想しました。
誰かさんは水軍を中心とした軍事都市化を狙っていたのでは・・・
安良は・・・周瑜があやしいと睨んでいます。は?
そして、もう一つのトピック・・・
海路の利は、なんといっても大型船の輸送力だと思います。
馬車100台分ほどの積載量がありますし、風や潮流は利用し放題ですからね!
呉や越の人々は大型船を用いて交易を盛んに行っていた。 そう考えると、物流に長けた呉越の豪族たちは、「中原の動乱」に商機を見ていたように思うのです。
彼らにとっての「乱世」は、中原の人々のそれとは違う意味を持っていたのかもしれません。
政治を取り締まる北方の人々に比べて、南方が異質に見えてしまう理由も、ここにありそうな気がします。
船は、青色の点線あたりを巡航していたのではないかと思っています。
港は、オレンジの○で、
・下邳の右上あたりは、徐州の港。
・青島は、青州の港。
だと思って印をつけました(すごく大雑把w)。
南方船の「山東半島を軸にした商航」を考えたとき、、、
輸送業の常として、荷無しの運行は勿体ないです。遼東や臨淄(りんさい)のルートで、小遣い稼ぎをしていたのではないでしょうか。呉のあきんどコース(推測)
南でたくさん積んだ物資を、徐州・青州 の港で下ろす。
↓
代わりに産物を積み、船はさらに北へ移動しつつ商ったり。
↓
遼東の鉄を中原へ運び、臨淄の荷を積む。
↓
南方へ戻る。
それにしても海運の胴元は、いったい誰だったのでしょうか。
安良は・・・陶謙があやしいと睨んでいます!え?



海から三国志を見てみるもの面白いです。
呉好きの特典と言っても良いかもお


はい!そうなんです

次回予告、『水は東に流る!』(cv千葉 繁)
いよいよ「黄河と長江」に切り込んでみたいと思います。
・・・できるかな

只今、三国志を修行中ですので、間違いや質問などあればコメントしてもらえると嬉しいです。