「アートな夜!」第26回は、鈴木松年 の特集です。

 

 

 

 

 

Wikipediaより。

鈴木 松年(すずき しょうねん、嘉永元年6月14日1848年7月14日) - 大正7年(1918年1月29日)は、明治から大正にかけて活動した日本画家。本名は謙、幼名は百太郎。初号は百僊(ひゃくせん、百仙とも)で、32歳頃に松年に改める。鈴木派の祖・鈴木百年の長男で、弟に鈴木百翠鈴木万年上村松園の最初の師としても知られる[1]

父のおとなしい画風とは対照的な、豪放な作風と狷介な性格で「曾我蕭白の再来」と評され、今蕭白とあだ名された。

 

京都東洞院錦小路で生まれる。幼い頃から軍談や喧嘩を好んたという。父百年から絵の手ほどきを受けたが、絵に関しては指導されるのを嫌だったとも言われる。若い頃は薩摩藩士に混じって国事を論じるなどして、本格的に画家になるのを決意したのは20歳を過ぎた頃だった。しかし、父の盛名からかその実力を正しく評価されなかったため、22歳の時円山の正阿弥楼で一日千枚描く席画会を企画、これを成功させその健筆を周囲に認めさせた。独立して百年の住居の裏に当たる東洞院錦上ルに画室兼住居を設け、地名にちなんで「東錦楼」と称した。曾我蕭白や岸駒に私淑し、その豪快な表現や画家としての気位を学ぶ。また、24歳の頃洋画も独学している。明治8年(1875年)7月頃、28歳の時長野県飯田に遊歴し、たまたま富士登山に行く途中の富岡鉄斎と出会い、度々鉄斎を訪ねたという[2]。32歳頃に画号を「松年」と改めるが、これは古来「に千年の縁あり」と言われたことから、父百年を越えようとする松年の矜持が窺える。なおその画号もあってか、松年には松を描いた作品が多い。

 

明治14年(1881年)4月、幸野楳嶺に代わり京都府画学校の北宗担当の副教員(教授職)となり、明治21年(1888年)まで務めた。松年は才気に勝り気性激しく、同時期の画家としばしば争った(後述)が、一方で豪快な中にしみじみとした人情味もあり、画学校で教授を務めた時も生徒の受けは非常に良かったという。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会に「蘇東坡図」「老松図」を出品し褒状を受け、明治17年(1884年)同第二回展も銅賞。更に翌年の第四回京都博覧会で発表した「蓬莱山図」で妙技賞銅牌を受け、日本美術協会にも出品した。

 

明治21年(1888年)41歳の時、京都府画学校を退職。明治23年(1890年)第三回内国勧業博覧会では「雪景山水図」が妙技三等。一方で明治25年(1892年森寛斎谷口藹山岸竹堂望月玉泉らと小春会を結成、古画の研究に努めた。明治33年(1900年)鉄斎と室町時代の大家・相阿弥の墓を探しに、円山の安養寺を訪ねている[2]。明治26年(1893年シカゴ万国博覧会に「雪中寒鴉図」「春景山水図」を出品する。第四回内国勧業博覧会でも、「群仙図」「嵐山春景」を出品、後者で再び妙技三等。明治29年(1896年日本美術協会が結成されると、その第一回共進会に「月下擣衣図」を出品、一等褒状を受ける。明治32年(1899年)日本絵画協会第七回日本美術院連合第二回展で「秋林」が銅賞。明治33年(1900年パリ万国博覧会で発表した「松かん[3]水声」で銅賞を取る。明治36年(1903年)から翌年にかけて『松年画譜』が刊行される。

 

後年、祇園白川畔の大画室を鶴寿軒と号して、京都画壇に重きをなした。明治40年(1907年)改訂の『大日本著名画家名鑑』という番付表では、今尾景年、橋本雅邦、望月玉泉、森琴石らと並んで「総後見」にランク付けされており、地位の高さを示している。松年には信心深い一面もあり、相国寺瑞春庵の堂宇再建のため百幅の羅漢図を寄付し、覚王山日泰寺には五百幅もの羅漢図を、潤筆料も取らずに揮毫したとの逸話も残る。更に大正3年(1914年仏画を多く描いた潤筆料で、永観堂の名で知られる禅林寺に、画仙堂という建物を寄進・上棟し、その天井画を息子松僊に描かせている。大正7年(1918年)1月29日脳溢血により死去。71歳。墓は東山区にある長楽寺で、妻鶴栄、長男松僊と共に眠る。墓石は硯を象り、背面には自筆の雲龍図が刻まれている。

 

同時代の競合する画家たちとは諍いが絶えなかったらしく、特に幸野楳嶺と犬猿の仲はよく知られている。ただし、これは自らの画名を高めるための一種のパフォーマンスと解釈する向きもある。松年とは比較的仲が良かった岸竹堂が、楳嶺との仲を取り持とうと「今日は珍しいものを御馳走するから」と松年を家に招いた。松年が家を訪ねると森寛斎と富岡鉄斎がおり、そこに楳嶺が現れた。そこで竹堂は、「いま京都に松年、竹堂、幸野梅嶺(楳嶺)」と、同時代に松竹梅が全て揃うのは大変珍しいのに、その松竹梅が交情が悪くてはいかんやないか。どうか、竹の私が仲裁するから松と梅も交情よくなって貰いたい」と訴えた。しかし、松年は「交情が悪い方が却って競争になってよい」「人こそ互いに交情が悪くても、絵画は勝手に交情が好くなる」と断った。それを聞いていた当時京都画壇の長老だった寛斎も「それもよい」と納得したため、竹堂の仲裁は失敗した。

また、ある日松年と楳嶺らが席画をした際、楳嶺の筆が壊れてしまった。しかし、それを見ていた松年が自分の筆をそっと差し出したため、楳嶺は事なきを得た。席画後、楳嶺は松年に礼を述べついで和解を申し込むも、困った時はお互い様なので助けたまでで、和解はするつもりはない、とやはり断っている。一方で、楳嶺が亡くなった時真っ先にお悔やみに訪れたのは松年だったという逸話も残る。また、松年は同門の今尾景年も牽制し、「友禅の下絵なら景年さんにいくがええ、掛物が欲しいならわしが描いてあげる」と放言するが、年長の景年は気にせずただ黙々と絵を描いていたという。

こうした態度は、松年が「長期庵の展観」と題する随筆[4]で語っている、かつて岸駒がわざと円山応挙の画を酷評して注目を集めて名を上げた、という逸話に倣ったとも考えられる。

 

 

逸話の中の 幸野楳嶺と犬猿の仲のことは 世間で よく知られていることなのだそうです。

ただし、これは自らの画名を高めるための一種のパフォーマンスなのではという 向きも知られたことなのだそうです!!

 

 

 

☆「仁王像」

 

 

☆「宇治川合戦屏風」

 

 

 

 

☆「八岐の大蛇退治図」

 

 

 

 

☆「暗流蛍火図」

 

 

☆「十六羅漢之図」

 

 

☆「御伽話図」

 

 

 

 

・神戸市東灘区にある「香雪美術館」にて。

企画展 生誕170年・没後100年記念「鈴木松年 今蕭白と呼ばれた男」
2018年7月10日(火)〜9月30日(日)

http://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/exhibition/future/

 

☆本日の一幅  『御伽話図』