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最近、ヤフーブログの一部で流行っている(?)「銅像クイズ」。その二番・三番煎じでもパクリでもなく、我が「へっぽこ・へなちょこブログ」の貴重な常連さんのお一人で「銅像クイズ」の創始者、とーこんさんに是非!とご紹介したところ、さすが元祖、見事、千田貞暁氏と言い当てました。

千田貞暁(せんだ・さだあき)は、天保7(1836)年に薩摩で生まれ、戊辰戦争に従軍するなどした後、明治13(1880)年に広島県令(明治19年、知事と改称)に就任しました。
当時、宇品島沖合いに停泊した汽船から小船に乗り換えて広島入りしなければならないのを見て、流通の不備による地域産業・経済の停滞改善のためにも、広島の発展には港の整備が不可欠と判断した千田は、予算8万円・工期2年半の予定で着工します。
ところが、明治17(1884)年から始まった工事は、再三の悪天候に堤防が決壊するなど難航。特に明治19年の水害では、せっかくそれまで進めた工事がほぼ全滅するほどの被害だったそうです。
そのため大きな資金難になると共に、反対派の非難・運動で、一時は工事取り止めの危機に陥りました。
しかし、千田は私財を投じて工事を続行、30万余の費用と5年3ヶ月の工期の末、明治23(1890)年、宇品港はついに完成します。ただその直前、千田は工事計画の不備を理由に給与を減額の上、新潟県知事に転任(事実上の左遷)されてしまいました。

完成後もしばらくは「無用の長物」扱いをされていた宇品港でしたが、明治27(1894)年に山陽本線が広島まで延伸され、折しも同年に勃発した日清戦争により、明治天皇が来広、帝国議会と大本営(戦時に設置される最高軍司令部のようなもの)も置かれるなど、広島は前線基地となります。鉄道は港と直結、多くの兵士や物資が広島から戦場へ送られました。
こうして広島は一大拠点として発展、宇品港の重要性も再評価され、千田は明治31年に男爵の位を授与され、同37年には宇品築港の功績で勲三等旭日章を受けています。

宇品港により一躍軍都として発展したために、その後、原爆の被害を受ける大きな一因となったともいえますが、その一方で、明治30(1897)年に開かれた台湾航路をはじめ、第一次大戦後には更に港湾整備が図られて商業港としての機能が発達するなど、現在の広島市の繁栄を考える時、その果たした役割は決して低くはありません。
その功績を称え大正4(1915)年に作られたこの銅像は千田廟公園にあり、設計図を手に当時の宇品港の方向を望んでいます。