オーストラリア北部準州と日本の間に関係する過去の出来事というと、まず空爆の事が取り上げられる機会が多いですが実はずっとそれ以前から多くの日本人達が、この遠く離れた地を行き来していたという歴史があります。

 

それは「真珠貝の採貝」という、過酷でありながらロマン溢れるものでした。
 

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19世紀半ばから後半、まだプラスチックが発明されていなかった頃、高級な衣服には真珠貝の一種である「白蝶貝」の貝殻がボタンの材料として高値で取引されていました。


その白蝶貝がオーストラリア北部の木曜島辺りに大量に生息している事が発見されてから、その周辺では真珠貝採貝漁業が大きな産業として栄えていました。


1870年代後半に、初めての日本人潜水夫が誕生し、その日本人特有の類い希なる採貝能力と度胸に、業界では日本人潜水夫が引っ張りだことなりました。その後、多くの日本人達が渡豪し、この産業を支える重要な担い手としてアラフラ海近辺で活躍していました。
そのエリアにはダーウィン沖も含まれており、当時ここにも多数の日本人が暮らしていたそうです。

 

ダーウィンにも、そういった当時の日本人達の眠るお墓が、Gardens近くのセメタリーに現在も多数残されております。

 


 

しかしその後の戦争により、殆ど全ての日本人がこの地を離れなければならなくなりました。

そして戦後、残念ながら白蝶貝製のボタンの需要はプラスチックの普及により急速に落ち込み、アラフラ海での採貝操業は1961年に中止となりました。


しかし、その少し前、1956年にその白蝶貝の新たな有効活用に先見の明を見出した日本人達が、西豪州のキンバリー地区で豪州初の真円真珠養殖漁場を立ち上げました。
 

それがこの国の南洋真珠養殖産業としての新しい幕開けとなります

 


その最初の養殖漁場を今も管理している、国内最大手の真珠生産販売会社の本社はダーウィンにあります。あまり広く知られてはいませんが、ここダーウィンも南洋真珠の生産地の一つとなっております。


現在の、在ダーウィン日本国名誉総領事は、その会社の三代目が務めており、真珠貝を通して始まった豪州と日本人との長きに渡る友好協力関係を、今もなお守り続けて頂いております。

 

Taky

 

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