yesterday once more

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東北発。コレクションと旅日記です。

 2月6日のJR東日本のプレスで磐越西線の電化区間で蒸機列車が運転されることが発表された。大変うれしいニュース...。

それはいいのだけどクマが冬眠から覚めている時期だ。

 昨年、全国的にクマによる被害が問題になった。福島県も同様である。われわれの趣味でも関係があるので注意喚起させていただく。貼った図は昨年のクマ出没マップからの抜粋だ。2025年のラジオ福島のサイトである。地図上に目撃地点がプロットされ、ここをクリックすると日時等情報が取れるようになっている。ちなみに赤が人的被害あり、黄色が目撃だけという凡例だ。磐越西線の沿線を切り取ってみた。右端が猪苗代、左端が広田のあたりになる。驚くなかれ、クマだらけである。JRの乗務員が線路上にいたところを目撃している回数がかなりある。山際だけでなく猪苗代駅周辺の平坦地でもかなり目撃され、猪苗代湖の湖岸にも出没している。

 昨年は山の木の実が不作だったというので人家のある集落にも数多く現れたことは記憶に新しい。今年は普通だというから安心、とはならない。それは秋の話で春はまた空腹で、また学習したので人里に出て来るのではないか。

 今どきの撮影ならできればグループで、なおかつ熊鈴やラジオ持参が望ましい。被害が出ないことを祈っている。

 

 

 

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 当地も少し暖かくなって春の気配を感じる。そろそろ冬の写真も区切りをつけた方がいいのかと思う。それならたまたまHDDで見つけた絵を貼っておこう。

 あの日のことを割と鮮明に覚えている。会津は無風快晴。白峰の磐梯山が聳え立っていた。同じねらいのファンが県道猪苗代塩川線のしかるべきところから冬期封鎖の踏切を越えて線路の南側に着陣した。もちろんアングルやレンズによって構える場所はあちこちに。

 自分も場所を決めた。絶好の条件。これで失敗するなら写真などやめてしまえ的な条件だ。D51は翁島に停車しての交換になるからここまでは煙を吐いてくるはず。線路は緩く更科信号場に向かって勾配になっている。磐梯山とD51が重なる構図もあるがちょっと窮屈にならないか? それならということで山を左に寄せて右下にD51を配する。異論の出る構図だけど絵的な重心は取れるはずだ。先行する上りの455系で最終チェック。さあ来いとばかり。

 翁島発車の汽笛が磐梯山麓に響く。「ああ、いいなあ」と感慨深い。陽が翳るのは想定内だったが山頂が輝いた。思わずレリーズを握る右手に力を込めて。

写し終えて足の冷たさを感じた。これが冬の会津、冬の磐西だった。

 

(補記)

既にプレス済みだけど、今年の「ふくしまDC」で磐西に蒸機が運転されることが発表されている。

4/11 会津若松⇒郡山

4/12 郡山⇒会津若松

の片道運転。カマは記載されていないが4/11より「SLばんえつ物語」号が運転され、そのプレスの中で「4/11は新津行なし、4/12は会津若松行なし」のような書きぶりなのでC57が編成ごと電化区間に乗り入れるように思える。

 

 

 

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 ダイヤ改正が迫ってきた。当地のマスコミ報道でもこの形式の運転終了について報道されている。珍しいことと思うけど単一形式がすっかり新形式に置き換わるのでニュースヴァリューがあるのだろう。特に東日本大震災で被災して廃車になった車両もあり、もうすぐ15年ということも関連がある。

 自分では通勤型電車ということもあり身近にありながら写したことがなかった。しばらくぶりに「葬式鉄」の気分を味わった。

秋田への廃車回送のニュースも伝わってきたが昨年の暮れあたりまではかなりの編成が動いていて撮影が楽しめた。通勤路線だけあって本数が多い。

 205系の引退を惜しんで「ありがとう運転」「夜間運転」の旅行商品も企画された。さすがにしっかりしている。その功績をたたえてみんなで見送りたい。

 

 

 

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 こういう雰囲気で東京寄りではなく仙台寄りにある駅。ドライブの途中で立ち寄ってみた。

東日本大震災による津波が来襲したものの損壊は免れたようだ。駅前に「ここまで津波が来た」旨知らせる小さな石碑がある。

 駅舎は当時の水戸鉄道管理局の標準仕様らしい。(その後、当時の仙台支社に移管されている。)このスタイルが残るところも少なくなっているのではないかと思う。

 今では無人化されていることもあって改札から構内を眺めてみた。線区内のほかの駅同様に有効長が長い。長編成の貨物列車や旅客列車が走っていた証。ここをC62が駈けたのかと思いを馳せる。

 時代が変わり、この駅の存在意義は仙台への通勤通学者だろう。過疎化と震災で周囲に人影がない。静かな雰囲気の中でクラシックな駅舎が佇んでいた。

 

 

 

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 磐西の「中山」は中通りと会津を分ける峠。陸羽東線にも「中山平温泉」という駅がある。

陸東は奥羽山脈を越える路線の中でも最急18‰と勾配が緩い。

「峠」の名前は付いていない。

 ここにC57が入線したことがあった。

旅客機だから急勾配には弱い。やや過酷といえようか。客車4ハイを持って県境に挑んだ。

 鳴子温泉駅で小休止した後、きつい坂に挑む。

サミットは堺田駅のところ。まだまだ先だ。「第三中山トンネル」の出口で待ち受ける。抜けた瞬間の猛煙を期待して。

光の量があったので左側の切通しへの着雪とのバランスに気を配った思い出がある。

 決して余裕はなかったのだろう。C57ではめったに見せない煙を吐いて登ってきた。きれいなカマに猛煙。ねらい通りの絵になった。

 

 

 

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 言われているように、蒸気機関車を被写体としたときの難しさを感じる。

特に冬。

SL撮影では白と黒のコントラストが勝負を分ける。

 今はディジタルの時代で画像処理ソフトを使えば自分のイメージに合うように補正ができる。

露出のミスだけでなくレンズの特性も含めて、何とか見られるようにすることができるありがたい時代になった。

これによってフィルム時代のように「撮り直しの一番」が少なくなった。

 それでもやはりSL撮影にはプレッシャーを感じる。

手応え十分でもラボ上がりのときの落胆がトラウマになっているのかも知れない。

失敗作は見たくもないのでモノクロ変換してしまおうかと思わせる。

 冬の中山宿も同様。

スウィッチバックで停車するから猛煙が期待できる。

構図も含めて何とかうまく写しとめたい。

当時はまだフィルム。

画質を重視してKR(コダクローム64)を使いたいが光量がないとロングでは苦しい。

天候を意識してRA3(センシア3)の両方を持参して現地で装填するようにしていた。

天気予報を気にしながら仕事を終えてから閉店時刻に間に合うようヨドバシカメラに急いだもの。

写真はセンシアだったと思う。

 SLは運転や保守もアナログだったが、写す方も同じ。

すっかりディジタルに馴染んでしまうとあのコントラストと画質のストレスも懐かしい。

まあ何とか見られる絵をご披露。

 

 

 

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 ツリ目の鋭い表情。峠を越えるE3系だ。

晩年、1編成がシルバー塗装に戻って話題になった。やはり、どんな車両でもオリジナルは練り上げられたデザインということだろうか。

 自分にとって板谷峠を越える特急を写すのは、キハ181系、485系、400系に続いて4代目になる。車両の性能向上とともに時間短縮と快適さに貢献してきたといえる。

 それが既にE8系が統一された。新しい時代を迎える印象だけど、少し複雑な思いもある。

せっかくの新形式だが、福島駅で「はやぶさ」と併結しないため、東北新幹線内での速度向上はわずかにとどまる。在来線での速度向上に制約がある以上、それを「東北」で挽回させるには限度がある。「新庄は新青森より遠い」と言われる所以だ。

 さらに板谷峠は自然災害による運休が多い。峠区間を新トンネルで抜くための調査が始まっているが工事を実施するとは決まっていない。やるとしても、時間的にE8系の次の世代になるだろう。

福島・米沢間は30分くらいになるだろうか。あの車窓風景が失われてしまうが。

 E3系の当時の写真を眺めているとそんなことを想わせる。

 

 

 

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 国鉄時代には「快速列車」は都会の電車区間だけのものであった。

田舎にいると特急、急行、普通列車の区分が明確でありそこに快速が入り込む余地はなかった。

それが国鉄時代末期になると様相が変わった。急行に代わって快速は多く設定されるようになる。それはなぜだろう?と。

 鉄道事業者としては「料金を取るかどうか」で急行と快速の違いがあった。国鉄は大赤字だったから料金をもらえる急行を単純にサービスとして快速に置換えるはずなどない。

 それは使う車両の都合によるものではないのかというのが自分の推測だ。当時の急行は例えば153系や455系、キハ58系が代表的な形式である。それらの経年が多くなり「これで料金を取るのか」という疑問に応えられなくなってきたのだと思う。それなら急行を特急に格上げして減収を防ぐとともに快速を組み入れることにより「特急格上げは実質料金値上げ」という意見をかわして路線として「サービスを維持向上させている」ことに持っていきたかったのではないか。

ついでに経年劣化が進んだ急行用車両を格下げして快速や普通列車に回せる。決して文句は出ないだろうと。おもしろい動きだったがそのあたりの事情が表に出ることはなかった。

 その一環とでも言おうか、奥羽本線の大館駅で快速「よねしろ」をみかけた。キハ58の二桁台がここまで生き残ったことも驚きだったけど、名車が大切に使われたことも印象深い。

 

 

 

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 淡雪の陸羽東線。まだキハ40系がいた頃だ。このあたりは「大崎耕土」と呼ばれる米どころ。陸東も奥羽山脈を越えるため勾配があるがこのあたりはまだ平坦線。そのためキハも結構なスピードを出す。この時はうっすらと雪をかぶっていた。朝の逆光の中、キハの4連がやってくる。今日、新たな一日が始まった。

 

 

 

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 たまには変わったところから撮影。ここは宮城県大崎市岩出山にある城山公園。早い話が岩出山城跡になる。今日は鉄道のサイドストーリーで人事異動の話でも。鉄道と人事異動の関係や如何に。

 伊達政宗公がいた頃の景色とは全く違うし中央の首都圏色のディーゼルもいるはずがない。だから政宗公が見た景色とは異なるものだ。そう、1591年に政宗公は豊臣秀吉の命により山形県米沢市からここ岩出山に移封される。政宗公は時期を失しながら北条討伐のため小田原攻めに参陣し何とか命をつなぐ。もともと米沢城で生まれ、自力で会津若松城を攻略した。当時の東北の中心は仙台ではなく会津若松。だから東北支社長に登りつめたことになる。秀吉に膝を屈して奥州仕置という人事異動で米沢支店長に戻される。ここまでは仕方ない。失態があったのだ。しかし野心家の政宗公はさらなる領地拡大のため、新領に入ってきた木村親子を攻めるべく周辺で一揆を扇動した。土地勘も何もない木村親子であっても直接討てば秀吉に逆らうことになる。しかし一揆を煽ったことが表沙汰になり、かろうじてこれも許されたもののペナルティで米沢から岩出山に移封された。

 ビジネスパーソンであれば人事考課があり異動がある。自分の経験でもガッツポーズするような異動はそうそうはなく大半が不本意なものだ。自分がやらかしたこととはいえ政宗公も評価に不満だったであろう。整備された米沢からはっきり言ってド田舎の岩出山へ行けと言われたわけだ。米沢支店長からさらに田舎の営業所長に飛ばされたことになる。ふてくされていた政宗公をなだめながら家康がわざわざここに来て城の手入れをしてくれたという裏話もある。上司に恵まれなかったということはあっても今とは違って直接不満を口にできる時代ではない。政宗公はこの場所で溜息をつきながら何を思ったものだろうか?

 皆さんも自分も「何でもっと評価されないのか?」と思い続ける現役生活だろうと思う。いつの時代も同じなのかと思わせる。

秀吉の死後、家康から仙台の東北支社長に任ぜられたのはここに赴任して12年後のこと。我慢の後、ここでガッツポーズと雄たけびが出ただろうか?

 

 

 

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