「死者の眼差しを意識するのが日本の保守主義だ」

 保守主義はイデオロギーではないが、日本人の土俗的な信仰心に立脚することだけは確かである。教義や経典があるわけではないが、日本人に中に脈打っている懐かしい信仰心なのである。小高い丘に死者が立って、子孫の暮らしぶりを見守っているという柳田国男の見方は、それなりの根拠があるのだ。

 柳田に「家永続の願い」(『明治大正史世相篇(下)』)という一文がある。死者の葬り方が昔は現在とは違っていた。それこそ最近話題の樹木葬と大差がなかったのである。

「祖先の記念は今の人が想像しているように、文字に刻んだ冷たい石の塔ではなかった。亡骸(なきがら)はやがて朽ちゆくものとして、遠く人亡き浜や谷の奥に隠して、これを自然の懐に返していたのである。喪屋(もや)の幾日かの悲しい生活を終わって還ると、字を知らぬ人たちはただその辺の樹木の枝ぶりや、自然の岩石の形によってその場所を覚え、時折りの花をささげ涙を流しに行ったが、それがだんだんんい移り変わって行くとともに、末には忘れられてしまうのが当たり前のこととなっていた」

 石碑というものが常人のために作るようになったのは、せいぜい300年前くらいのことなのである。死者を遠い荒野や寂しい山に捨てたがゆえに、かえってその魂が生きている者と同じく、生者に寄り添うとの信仰心が生まれたのではないだろうか。

 先祖の死者の眼差しに耐えるためには、人間として何を為すべきか。それが日本人の土俗的信仰の根本にあったし、それは今日でも変わらないのではないだろうか。

 この世は生者だけで成り立っているのではなく、今を声を上げることができない者たちの、声なき声に耳を傾けることで、死者との絆を絶えず確認するのが日本本来の保守主義なのである。評論家 笠井尚

 

正しい人間の意見であれば、たとえその人間が自分の父であっても尊重する──それが伝統だ。民主主義と伝統──この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える。二つが同じ一つの観念であることは、私には自明のことと思えるのだ。われわれは死者を会議に招かねばならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない。── G.K.チェスタトン(『正統とは何か』)