小泉八雲の和服姿の写真(小泉家所蔵)

 外国人も日本で生活になじむ人がふえてきた。私たちも外国人と親しく接することが大切だ。外地で生活に溶け込むには、土地の言葉を気楽に話せる力を身につけるのが大事だが、よき外国人と親しくなれるかどうか、それが一層大切だ。外国人の場合も同様で、日本に帰化して小泉八雲と名のったラフカディオ・ハーン(一八五〇-一九〇四)は、明治日本の面影を見事に書き留めたが、よき人を友に得たからこそできたのだ。ハーンが日本の庶民の心の動きをさとく捉え得た秘訣(ひけつ)はそこにある。ではその知友とは誰々か。

 ≪仏教以前の日本の信仰感じる≫

 三十九歳で一八九〇(明治二十三)年四月来日したハーンは横浜で寺めぐりの途次、真鍋晃に出会った。仏道修業中で、明治の青年らしく英語も熱心に勉強、通訳を引き受けた。ハーンは、日本人がお地蔵様を大事にし、子供をかわいがるのを見て、親に捨てられた子供だっただけに、良い第一印象を得た。西洋と違って神社やお寺の境内で子供が楽しげに声を立て遊んでいる。賽(さい)の河原ではお地蔵様が「幼きものをみ衣(ころも)の裳裾(もすそ)のうちにかきいれて」助けてくれる。耳を傾けると、真鍋が『賽ノ河原口吟之伝』を教えてくれた。『弘法大師一代記』の話もしたばかりか、ハーンを横浜の下宿に案内し、観音開きの扉の片方の蝶番(ちょうつがい)が壊れた仏壇も見せてくれた。

 その前で亡き子のために祈る下宿の上(かみ)さんは、ときどき唇で息を吸い込む。やわらかなシューという歯擦音(しさつおん)が聞こえる。その姿にハーンは仏教以前の信仰を感じた。ハーンは、自分は日本人の暮らしにまじった具体的な宗教を見て感じて語ろう、と思った。

 八月下旬、姫路から二台の人力車で中国山地を抜け、日本海寄りの上市で盆踊りを見て感銘する。村をウワイチでなくカミイチとしたのは真鍋の読み違えだ。誰かこの青年の正体をつきとめないか。

 同年八月三十日松江到着、九月から島根県尋常中学校で教えた。真鍋とは二週間後、出雲大社に詣でた後、別れる。中学では人柄の立派な同僚、西田千太郎(一八六二-一八九七)が助けてくれた。

 ≪ある保守主義者のモデル≫

 『西田千太郎日記』は一九七六年に公刊され、二人の親密な交際が世に知れたが、文通はハーンが一八九一年秋、熊本へ移った後も続いた。その『ラフカディオ・ハーン西田千太郎往復書簡』(常松正雄訳、八雲会刊)がこのたび出たが、両人の親交のほどに心打たれる。西田はハーンの来日第一作の資料も調べて訳して送っている。西田は熊本まで遊びに行きハーン家に泊まった。家人が蚊帳の穴に後から気づき、西田は安眠できなかったろうとハーンも気にして謝っている。西田は明治三十年、結核で亡くなるが、ハーンはなつかしみ、亡くなった後も「今日途中で、西田さんの後姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした」などと妻節子に話した。

 ハーンは来日第二作『東の国から』(一八九五)を「西田千太郎に、出雲の日々のなつかしい思い出」に献じた。第三作『心』(一八九六)は「詩人、学者、そして愛国者なるわが友、雨森信成」に献じた。『心』に収められた「ある保守主義者」のモデルがその雨森だろうことは推察されたが、その正体が判明したのは、昭和末期に山下英一氏がラトガーズ大学のグリフィス文庫の中で雨森の写真を発見したのがきっかけだ。

 福井出身の雨森信成(一八五八-一九〇六)は、明治学院の草創期の最優秀卒業生で、グリフィスはじめ宣教師などを助けたが、キリスト教を捨てた。そのため同窓会名簿から抹消されていた。それもあって、ボストンの『大西洋評論』に達意の英文で寄稿したほどの学識ある雨森なのに、消息は長く不明だったのである。

 ハーンの代表作三点は来日第一作の『知られぬ日本の面影』、『心』、最終作の『怪談』だが、『心』の執筆を助けたのは、横浜で「西洋洗濯屋」として生計を立てた雨森で、それにふれた拙著『破られた友情--ハーンとチェンバレンの日本理解』は長く品切れだったが、このたび『平川著作集』に入ったので再説しない。

 ≪日本の最高の友は妻の節子≫

 『怪談』は妻の小泉節子の協力でできた。「耳なし芳一」も節子が「琵琶ノ秘曲、幽霊ヲ泣カシム」という原文をハーンがわかるよう読んで聞かせた。節子の声音の変化から、ハーンは日本人の気持ちをさとく捉えた。こうして英語芸術作品は生まれた。

 怪談を語るときは「日が暮れてもランプをつけていません」。英国詩人カーカップは、ハーン理解の最高の名著は節子のこの『思い出の記』だと述べたが、ハーンが得た日本の最高の友は妻の節子だ。松江に来て初めに節子と結ばれたことが良かった。

 「初めよければすべて良し」 All’s well that begins well.ハーン来日百年記念の席で梶谷泰之教授が英語講演をそう結ぶや、松江の八百人の聴衆がわっと歓呼した。(ひらかわ すけひろ)産経新聞

 日本に住む外国人にお願いしたいのは日本語を学んで欲しい。難しいけれど、日本語を知れば日本人の死生観、宗教観、日々の生き方も理解できるだろう。ハーンはそれを実践をした人なのである。