佐伯啓思・京大名誉教授

 かつては、毎年8月も半ばになると、お盆と終戦の日があいまって何か独特の雰囲気を漂わせていた。昭和30年代、私が少年だったころは、子供心にも、8月15日が特別な日であることは十分に感じ取られた。社会全体にまだそういう雰囲気があった。だが、昭和から平成へと移ると、それも薄らいでゆき、令和となった2年目の今年は、新型コロナウイルスの影響もあって、お盆の帰省や様々な行事も自粛になりそうである。

 ≪戦死者たちの思いの上に≫

 かつてお盆と終戦の日が重なり合うことで8月15日前後に何か厳粛な雰囲気が漂っていたのは、そこに「死者」への思いが生きていたからである。お盆の行事によって先祖の霊を迎え、亡き父母や祖父母などの死者を人々は思い出したものである。そしておそらくは多くの家庭にあって、親や祖父母の世代が、あの悲惨な戦争の時代に生き、また戦死したというような記憶がそこに重なり合った。だから、終戦の日は、誰もが戦死者の霊に思いを致す多少は神聖な時間であった。お盆と重なることで、戦死者の霊は、戦争を生き延びた者や戦後に生まれた者との魂の交感をもったわけである。

 言い換えれば戦後という時空は物言わぬ戦死者たちの思いの上に成り立った時間であり、終戦の日とは、その思いをわれわれが受けとめようという厳粛さをもった特別な日付であった。この厳粛さのなかで、生者は、死者たちの前で、自らの行動を省みるという倫理観をあらたにしたものである。

 もちろん、どれほど深刻な経験であれ、時間とともにその記憶が薄れてゆくのは仕方のないことではあろう。あれほどの大きな傷を与えた戦争の記憶も、戦争経験者がこの世を去り、次々と市場へ出回るあふれんばかりの情報に時間と労力を注ぐ若者たちが社会の中心へでてくると、経験の伝承も難しくなるのも当然ともいえよう。

 ≪危機にあって必要なこと≫

 しかし、それでも、戦後日本の75年を振り返ったとき、ただただやむをえないともいっておれない。というのも、この間の日本の新型コロナ禍を見ていると、あの多大な犠牲を払った戦争の上に築かれた戦後がこの騒動に帰着したのか、という暗澹(あんたん)たる気分にもなるからだ。いったい、戦後75年とは何だったのだろうか、と思いたくもなるのである。

 感染者が増加すれば、世論も大方のメディアも、政府にわれわれの命を守ってくれという。しかし、感染が収束に向かい、経済の悪化が顕在化するやいなや、政府の自粛要請を批判し、また早く支援金や給付金を出せという。そして政府もこの世論の動向に振り回され、その方針が定まらない、という有様(ありさま)である。危機にあってもっとも必要な、政府と国民の相互信頼がまったく見られなかった。

 確かに国家が個人の生命に対して責任を負うというのは、近代政治学の基本命題であるが、もし国家にそれを要求するのであれば、本質的に、例外状態における国家緊急権にまでいたる問題である。

 戦争、自然災害、疫病、テロなどの緊急事態において、部分的に憲法も民主的手続きも停止されることを覚悟することである。新型コロナは幸いなことにそこまで深刻な事態ではないからといって、問題をごまかすことはできない。これは憲法問題にも直結することだが、与野党もメディアも、どこからもその種の声は聞こえてこない。ただ、未知のウイルスの脅威にさらされたパニックを政府に向けただけであった。だから少し感染が収まれば大挙して人々は「夜の街」へ繰り出したのである。

 ≪コロナで露わになった光景≫

 一方、自粛によって、インバウンド目当ての観光業や外食産業、「3密」状態のカラオケや他の「夜の街関連」、ライブなどのエンターテインメントが悲惨な状態にある、という。それがつぶれれば、日本経済全体が大打撃を受けるのである。つまり、われわれの生は、たぶんにそれらのサービス業によって支えられているということだ。今日、われわれの日常には、ありあまるほどの衣類や家電製品やグルメや旅行や様々なエンターテインメントがある。都市の歓楽街は不夜城である。だがその一方で、医療や教育や介護は人手も資金も困窮し、地方の商店街などは荒廃の極みになっている。

 これが戦後75年たってコロナで露(あら)わになった光景ではないのだろうか。8月15日を迎えて、われわれはこの光景を戦死者たちの霊に捧(ささ)げることができるのであろうか。「平和と繁栄」の75年で、何か大事なものが置き去りにされた。生の充実を何に求めるのか、死の意味づけをどうするのか、といった人間の根源的な問題はまったく放置されたままなのである。

 先祖の霊との対話であるお盆も、また戦死者との魂の交感である終戦の日も特別なものでなくなったとき、われわれは、自らの生も死も意味づけることができなくなったのではなかろうか。(さえき けいし)産経新聞

小田山忠霊堂で行われる戦没者追悼式は鎮魂の場であった。遺族会、傷痍軍人会、軍人恩給の人たちがいた。散華した英霊を追悼をした。英霊への祈りのない民族は滅びゆく。